nihoonshibenkyouの日記

 私大の日本史で点数がとれない。そんな受験生に、ストーリーで学ぶ勉強法をお教えします!

奈良時代の仏教は○〇でマスターできる!

こんにちは!マロです!

 

さっそくですが、

みなさんは奈良時代の仏教について

説明できますか?

 

「奈良?ということは大仏?」

「あまりよくわからない」

「そもそも奈良時代がわからない」

そんな風に思っていませんか?

 

奈良時代の仏教は仏教の歴史を学ぶ上で、

たいへん重要です!

なぜなら、奈良時代は仏教について

はじめて詳しい情報が出てくる時代だからです!

 

日本史の学習指導要領の問題かもしれませんが、

正直言って、聖徳太子や天武・持統天皇の時代は、

仏教に関してはほぼ、仏像しか出てきません(笑)

 

しかし、奈良時代になると、

仏教に関する詳しい内容が出てきます!

そして、ここを押さえることで、

後の仏教の歴史が確実に理解しやすくなります!

 

 

ここを押さえ、後の内容を理解できれば、

仏教の部分が大きな得点源になりますね!

もちろん、奈良時代の仏教についても

試験に出ます!

 

そのため、この記事を読めば、

奈良時代の仏教の部分が得点源になり、

しかも、後の仏教史も理解しやすくなるため、

最終的には、仏教史全体が得点源になります!

 

しかし、この記事を読まなかった場合、

奈良時代の仏教史を得点源にできず、

その後の仏教史も身につきません。

 

なぜなら、他の教材の場合、

大体その時代の話だけで終わっているからです。

しかし、この教材の場合、奈良時代だけでなく、

その後についても解説しています。

 

しかも、奈良時代の仏教に関しても

わかりやすく解説しているため、

この教材を読めば、確実に、

奈良時代の仏教が得点源になります!

 

この記事を読まなかった結果、

奈良時代や他の時代の仏教史で得点を失い、

最終的に受験に落ちる…。

そんなの嫌ですよね?

 

 

そんな受験生を出さないために、

今回は、

奈良時代の仏教」

について解説します!

 

まず、奈良時代について説明します!

奈良時代は、平城京に遷都してから、

長岡京に遷都するまでの期間を指します!

 

長岡京に遷都したのは784年なのですが、

奈良時代は710年から782年までです。

とりあえず、奈良時代は710年からの

約70年です!短いですね!

 

という感じで奈良時代の話をしたいのですが、

奈良時代の仏教を見ていくにあたり、

まずは仏教が日本に入ってきた経緯に

ついて触れる必要があります。

 

仏教は6世紀に、

朝鮮半島から伝えられました。

この頃は、ヤマト政権の時代ですね。

 

出展:朝鲜三国时代 (shijii.com)

 

具体的には、百済聖明王

欽明天皇の時に

仏像や経論などを伝えました。

 

とはいえ、

すぐに仏教が受け入れられた

わけではありません。

 

聖徳太子が登場する少し前、

仏教受容に賛成していた蘇我氏と、

反対していた物部氏が争い、

蘇我氏が勝利します。

 

その後、聖徳太子が仏教を積極的に受け入れ、

憲法十七条で仏教を重んじる方針を出したり、

旻というを隋に送ったりし、

仏教を政治に取り入れます。

 

仏教はこのようにして入ってきました。

ところで、なぜ、仏教が日本に来た経緯を

説明したのかというと、

仏教が外国から来たという事実が重要だからです。

 

出展:ブッダガヤ|インド 世界遺産|阪急交通社 (hankyu-travel.com)

 

どういうことかというと、

当時、仏教は外来文化でした。

仏教は近代でいうところの、

欧米の文化のような存在です。

 

なじみがなく、異質なものだった

ということですね!

とはいえ、そんな仏教を日本に

馴染ませたのはすごいことです。

 

そして、ここで注目すべきなのは、

当時は、外国から来るものは、

朝廷が受け入れていたということです。

 

現代であれば、たとえば、

韓国の文化が韓国の企業によって

日本にもたらされるということが

あると思います。

 

あるいは、日本の企業や個人が

韓国の文化を日本に持ってきて、

日本で韓国の店を出す

ということがよくあります。

 

出展:【京都】韓国に行った気分を味わえる♪人気の美味しい韓国食堂7選! - JOSHIME!!

 

ですが、それは、現代の庶民が自由で、

海外との接点が多いからです。

当時は、庶民にとって、

海外なんて接点がありません。

 

というより、海外と交われたのは、

政治に関連していた人だけです。

当然、海外旅行どころか、

貿易すらありませんでした。

 

ということは、

海外から入ってきたものは、

朝廷から庶民に降りていく

ということです。

 

 

すなわち、庶民は、

すぐに仏教を信仰することはできなかった

ということですね。

 

少しネタバレになりますが、

仏教の歴史を簡単に説明することに

します。

 

仏教はまず、朝廷から許可が降りなければ

信仰できませんでした。

そのため、朝廷から許可された人物しか

僧になれなかったのです。

 

 

それとともに、

仏教は外来の宗教であったため、

研究が必要でした。

 

そのため、僧はインテリであり、

仏教を熱心に研究しながら

信仰していました。

これは、奈良時代平安時代のことです。

 

しかし、鎌倉時代以降、

徐々に庶民にも仏教が

広まっていきました。

 

それと同時に、

もともとあった神道(日本の神を信仰する宗教)

と仏教を融合させる動きも起こります。

 

これ以上語ると長くなりすぎるので、

割愛しますが、

これが簡単な仏教史の流れです。

(室町・江戸時代などはカットしています。)

 

長くなりましたが、本題に入ります。

今回は、奈良時代の仏教史なので、

まだ庶民が仏教をあまり信仰できなかった

時代のお話です。

 

 

奈良時代律令制度が整い始め、

国家としての機能がしっかりしてきた

時代です。

 

ですが、政争や疫病など、

政治を揺るがすことが多々起こります。

具体的には、藤原氏の誰かと皇族の誰かが争ったり、

天然痘が流行したりしました。

 

出展:日本の医学史 (nico-wisdom.com)

 

実際、天然痘では、

人口の約3割が亡くなります。

中世ヨーロッパでいうところの、

ペストのようなものだと言えるでしょう。

 

そのため、聖武天皇は、

その状況にオロオロし、

遷都しまくります(笑)。

 

藤原広嗣という人物が、

遣唐使の玄昉と吉備真備の登用に反対し、

九州で反乱を起こしたのをきっかけに、

聖武天皇は4回遷都しました。

 

聖武は都の場所が悪いと考えたのです。

遷都した順番は、

恭仁宮(京都)⇒難波宮(大阪)⇒紫香楽宮(滋賀)

の順です。

 

出展:奈良時代についてわかりやすく【1】平城京とせんとくん – 日本史ゆるり (nihonshi-yururi.com)

 

この時、

恭仁京で「国分寺建立の詔」を、

紫香楽宮で「大仏造立の詔」を出します。

 

国分寺建立の詔は、「国ごとに

国分寺国分尼寺を建てろ」というものです。

大仏造立の詔は、「大仏を建てろ」

というものです。

 

これにより、すごい人数で大仏が

造られました。

まさに、国家プロジェクトです。

 

 

では、なぜ、疫病や政治の不安定などの

問題が起こる中、仏教を大規模に

信仰しようと思ったのでしょうか?

 

それは、鎮護国家の思想」

というものがあったからです。

 

鎮護国家の思想」は

仏教を盛んにすれば、国家が安定する

というものです。

 

聖武天皇は、この思想に基づき、

仏教の信仰を国家レベルで行いました。

ですが、強調しますが、

この時、庶民は仏教を信仰できませんでした。

 

では、仏教は具体的にはどのように信仰されていた

のでしょうか?

詳細を見ていきます。

 

まず、朝廷から許可を得た人物だけが、

僧になれました。

私度僧(許可なく勝手になった僧)は禁止

ということです。

 

それとともに、

僧は寺院内で研究をするように

言われていました。

ここまではさっき説明した通りです。

 

この時、「南都六宗」というものがありました。

南都六宗は「法相宗」「律宗」「三論宗」「成実宗

華厳宗」「倶舎宗」の6つで、

兼学も可能でした。

 

奈良の寺院では、

仏教理論の研究グループを作り、

経典研究をしていたのです。

 

その他、

唐から戒律が伝えられました。

戒律とは、正式な僧が守るべき規則です。

 

当時、正式な僧になるには、

得度(出家)し、戒を受ける

(「信徒が守るべき規則=戒め」を受ける)

必要がありました。

 

この戒律を鑑真という唐の僧が

日本に伝えました。

鑑真は、渡航に失敗しまくり、

盲目になった外国人の僧です。

 

鑑真、すごいですね!

諦めない心。

見習いたいです!

 

出展:奈良時代(1)④ ネバーギブアップの男、鑑真! : ボケプリ 涙と笑いの日本の歴史 (livedoor.jp)

 

鑑真は、奈良に東大寺を建て、

遠方の僧が戒を受けられるように、

筑紫観世音寺(福岡)、

下野薬師寺(栃木)を建てました。

 

東大寺、筑紫観世音寺、下野薬師寺

本朝三戒壇と呼ばれています。

その後、鑑真は、自ら建てた

唐招提寺で亡くなります。

 

このように、

庶民は仏教を信仰できなかった

のですが、

そのおきてを破った僧がいます。

 

それが、法相宗行基です。

行基は、灌漑設備や道路の整備、

救済施設の建設など社会事業を行った他、

民間への布教活動を行いました。

 

出展:【高僧・行基】弟子1千人を統率する土木のドン(2/3ページ) - 産経ニュース (sankei.com)

 

当時、僧の活動は寺院に限られ、

民間布教を禁止されていたのにも関わらず、

行基は布教活動を行ったのです。

これは当然、朝廷から弾圧されます。

 

しかし、面白いことに、

後に、大仏造立に協力します。

朝廷から、「大仏造り手伝って」

と言われたのです(笑)。

 

ちなみに、社会事業で言うと、

光明皇太后によりつくられた、

悲田院と施薬院というものがあります。

 

悲田院は孤児や病人を収容する施設であり、

薬院は病院です。

これらは平城京に作られました。

これも、仏教の思想が関係しています。

 

出展:悲田院 東山からの眺望: 京都を歩くアルバム (cocolog-nifty.com)

 

このように、国家規模で信仰していた仏教ですが、

大寺院の伽藍や広大な寺領は、

国家財政を圧迫していました。

 

このような中、日本の神と仏は

本来同一であるという

神仏習合」も起こりました。

 

以上が奈良時代の仏教です。

まとめると、

 

1.仏教は外来の宗教だった。

 

2.そのため、仏教は朝廷の許可が必要であり、

 庶民は信仰できなかった。

 

3.しかも、許可を得た僧は

 仏教を研究する必要があった。

 

4.そして、疫病や政争などの影響で、

 鎮護国家思想に基づき、

 仏教が大規模に信仰された。

 

ということですね。

 

今回の内容は、

比較的簡単だったと思います。

とはいえ、1回読んだだけでは

身につきません。

 

なので、

ここからさらに

勉強する必要があります。

 

では、どのように勉強すれば

よいのでしょうか?

3つのステップがあります。

 

①この記事を読み直す

 

②大事なところをメモし、

 自分なりにまとめる。

 

③教科書などを読み直し、

 補足情報や用語などを確認する。

 

以上の3つです。

とはいえ、

いきなりここまでやるのは

大変ですよね?

 

なので、まずは、

「この記事を読み直す」

ということをやってみてください。

 

そして、奈良時代の仏教史を押さえ、

後の仏教史も押さえ、

日本史で仏教史を得点源にしましょう!

 

最期まで読んでいただき、

ありがとうございました。