nihoonshibenkyouの日記

 私大の日本史で点数がとれない。そんな受験生に、ストーリーで学ぶ勉強法をお教えします!

大化改新は〇〇でマスターできる!

こんにちは!マロです!

 

さっそくですが、

大化改新」について

説明できますか?

 

 

「中学校で習った」

聖徳太子の後のやつでしょ?」

蘇我氏を倒したやつ?」

そんな風に思っていませんか?

 

大化改新は、

これからの歴史を学ぶ上で

大変重要です。

 

ここをしっかりと押さえると、

後の内容が理解しやすくなります。

ここは簡単なところなので、

確実に押さえましょう!

 

 

逆に、もし、

ここをしっかり押さえなければ、

後の歴史が理解しづらくなります。

 

そのうえ、当然、

大化改新の部分が試験に出たとき、

失点してしまいます。

 

大化改新の部分で失点し、

しかも、後の内容もうまく勉強できず、

最終的に受験に落ちる。

そんなの、嫌ですよね?

 

 

この記事では、

そうならないように、

大化改新」について、

分かり易く解説します。

 

まず、この頃の日本は、

天皇中心の国家体制を

まだ十分に確立できていませんでした。

 

これは要するに、

豪族も力を持っていたということです。

そのうえ、天皇は、地方に関しては、

どうなているのか把握していませんでした。

 

もちろん、ある程度はわかっていたでしょう。

しかし、具体的にどの地方にどれくらいの

人民がいる、といったことは

把握していませんでした。

 

かなりいい加減な話ですね(笑)

ですが、考えてみてください。

電話もパソコンも電車もない時代に、

地方のことまで把握するのはかなり難しいです。

 

 

天皇が各地方に出向き、

土地や人の記録を付けたり、

豪族を監視したりするのは

不可能でしょう。

 

では、どうすればいいのか?

簡単です。

縦向きの国家構造をつくる。

これが答えです。

 

天皇が都で頂点にいて、

各地に役所や役人を置き、

報告を受けたり、指示を出したりする。

こうすれば、全国を統治できます。

 

ですが、別に無理して

日本全国を納めなくても

良いのではないでしょうか?

 

戦さえ起きなければ、

それぞれの地方が国のようになればいい。

そう思いませんか?

 

けれど、そんなのんきな状況では

ありませんでした。

当時、日本の北の朝鮮半島では、

領土の拡大合戦が起こっていたのです。

 

聖徳太子の時代には、

隋が南北朝を統一し、

高句麗などの周辺地域に進出し始め、

東アジアは激動の状況になりました。

 

その後、隋が滅び、

唐という王朝になるのですが、

唐は充実した国家体制を整えます。

そして、また高句麗に侵攻を始めたのです。

 

出展:7世紀 - 7th century - JapaneseClass.jp

 

これに対し、周辺国はビビりまくります。

日本にとっても対岸の火事ではありません。

国内を統一させ、しっかりとした国にしなきゃ。

日本はそう考えたのです。

 

国内が統一され、政治が安定していれば、

当然、外国の侵攻に備えられます。

逆に、もし、政権争いや地方での反乱などで

政治が揺るがされれば大変です。

 

それを鎮圧したりしなければなりません。

しかも、地方などが味方でないということは、

日本は小さい国ということです。

そんな国、一瞬でつぶされます(笑)。

 

この状況では、当然、

中央集権化は必須ですね!

 

さて、時代を少しだけ遡ります。

ヤマト政権の時は、

大王に対し、

地方豪族が抵抗することがありました。

 

出展:日本史|東アジアのヤマト政権 (chitonitose.com)

 

 

そのため、ヤマト政権の後半で、大王は、

地方に屯倉という直轄領を設けたり、

名代・子代という直轄民を設けたりし、

地方を納めました。

 

一方、豪族にはその地方の支配権を認め、

その代わり、屯倉や名代子代の管理をさせたり、

豪族の子どもを大王の元に出仕させたりして、

ヤマト政権に奉仕させていました。

 

出展:古墳時代とヤマト政権 | 歴史HACK (history-wisdom.net)

 

その後、聖徳太子の時代には、

推古天皇聖徳太子とともに

蘇我馬子を政権に登用し、

蘇我氏という豪族が権力を持ちました。

 

そして、この蘇我氏がじゃまだったのです。

庶民のみならず、土地や豪族まで、

全ての人と土地を天皇が支配する。

 

そのような体制をとりたいのに、

蘇我入鹿(馬子の孫)が

山城大兄王(聖徳太子の息子)を滅ぼし、

蘇我氏への権力集中をはかりました。

 

こんなことをされると、

皇族側は黙っちゃいません。

反撃します。

 

中大兄皇子は、

中臣鎌足蘇我倉山田石川麻呂に

協力してもらい、

蘇我馬子蝦夷親子を滅ぼします。

 

中大兄皇子は後の天智天皇

中臣鎌足は後の藤原氏の祖、

蘇我倉山田石川麻呂は馬子の孫です。

石川麻呂に関しては、謎ですね(笑)。

 

出展:日本を乗っ取る名門一族(?)藤原氏の正体 | 國體派カタカムナ玄学史観研究会 (ameblo.jp)

 

この出来事を「乙巳の変」と言います。

この変の2日後、皇極天皇の譲位を受け、

孝徳天皇が即位します。

 

そして、この新政権には、

皇太子として中大兄皇子が、

右大臣に蘇我倉山田石川麻呂が、

内臣に中臣鎌足が登用されます。

 

その他、帰国した遣唐使

旻と高向玄理を国博士に登用しました。

そして、飛鳥から難波に遷都し、

政治改革を進めました。

 

出展:古代の水陸交通網・大和川 : 徒然なるままに、、、 (exblog.jp)

 

この時の、

孝徳朝において行われた

一連の改革を「大化改新

といいます。

 

乙巳の変や新政権を

大化改新というわけでは

ありません。

ちなみに、「大化」は元号です。

 

出展:欠史八代結合体:【古代天皇詩】Vo.36 孝徳天皇の難波ひとりぼっち (livedoor.jp)

 

では、どのような改革だったのでしょう?

具体的には、「公地公民制」への移行です。

公地公民とは、土地や国民は全て天皇のもの

ということです。

 

646年(乙巳の変の1年後)、

「改新の詔」が出されました。

詔は、天皇の言葉という意味です。

 

この詔によって、豪族の田荘、部曲が

廃止されました。

田荘と部曲は大和政権時代に

設けられていたものです。

 

田荘は豪族の私有地、

部曲は豪族の私有民です。

豪族が土地や人を所有していると

困りますよね。

 

出展:【高校日本史】氏姓制度のポイント | TEKIBO

 

天皇は、全ての土地と人を

支配しようとしていたのです。

なのに、豪族が土地と人を所有していたら

当然困ります。

 

称徳天皇はこれらを廃止し、

公地公民制を進めました。

 

そのうえで、

全国的な田地、人民の調査や、

統一的税制の施行が目指されました。

 

さらに、地方行政組織の「評」が設けられ、

中央の官制も整備されました。

とはいえ、具体的な話が出てくるのは、

少しのちの時代です。

 

出展:日本史|大化改新 (chitonitose.com)

 

以上が「大化改新」です。

今回の内容は簡単なので、

比較的頭にはいりやすいと思います。

 

しかし、だからといって、

このまま読み終わってはいけません。

なぜなら、このまま読み終わってしまうと、

せっかく得た知識が定着しないからです。

 

では、どうすればいいのか?

やるべきことは2つあります。

 

①今回の記事を読み直し、ポイントを確認する

 

②①を受け、教科書などを読み、

 次の時代の流れを確認し、

 今回の内容とのつながりを考える。

 

この2つです。

とはいえ、②に関しては、

はっきり言って難しいと思います。

 

そのため、まずは、

「今回の記事を読み直し、

ポイントを確認する」

ということをやってみてください。

 

最期まで読んでいただき、

ありがとうございました。