nihoonshibenkyouの日記

 私大の日本史で点数がとれない。そんな受験生に、ストーリーで学ぶ勉強法をお教えします!

江戸時代の鎖国の動揺は○○でマスターできる!

こんにちは!マロです!

 

さっそくですが、

鎖国の動揺」

について説明できますか?

 

鎖国の動揺」とは、

ロシア船などが来て、

鎖国体制が脅かされた一連の

出来事を指します。

 

「ラスクマンしか覚えてない」

「異国船うち払ってたのは覚えてる」

そんな風に思っていませんか?

 

間違ってはいませんが、

もし、そのように思っているのであれば、

危険です。

 

なぜなら、

ここの選択問題や並べ替え問題が

出たとき、点を落とす可能性があるからです。

 

たとえば、

「1~4のうち、正しいものを選べ」や

「1~4の出来事を並べ替えよ」

といった問題が出る可能性があります。

 

そんな時、なんとなく内容を

押さえた気になり、

ちゃんと勉強していなければ、

確実に点を落とします。

 

ここで点を落とし、

受検で不合格になる。

そんなの、嫌ですよね?

 

 

一方、この記事を読み、

しっかりとした勉強を行えば、

受検で確実に合格できます。

 

 

というわけで、

さっそく解説していきます!

 

まず、

鎖国について簡単に

見ておきましょう。

 

鎖国とは、

オランダ、清、朝鮮、

琉球以外の国とは国交をもたない

ということです。

 

出展:EU、1ヶ月間の「鎖国」を決断 ニュース速報画像掲示板 明和水産 (meiwasuisan.com)

 

ヨーロッパに関しては、

もともと、スペイン、

ポルトガル、イギリス、

オランダと関わりがありました。

 

しかし、最終的には、

オランダ一か国になりました。

 

鎖国した理由は、

徹底的に、キリスト教

排除するためです。

 

このような鎖国は、

以外にも上手くいきます。

約200年の間、

外国が日本に絡んでくることは

ありませんでした。

 

しかし、そんな状況に

揺らぎが生じます。

それが、ロシア人の接近です。

 

出展:ロシアの国旗 - 壁紙・画像:エムズライファー (mslifer.com)

 

日本はロシアの存在を認知していました。

しかし、絡んだことはありませんでした。

というより、そもそも

蝦夷地のことすらよく知らない状態でした。

 

なので、田沼意次の時には、

ロシアとの交易の可能性を調査するため、

工藤平助という人物が

蝦夷地に派遣されたりしました。

 

まあ、田沼は経済の自由化や

交易の活性化をよいことだと

考えていたので、

少し違いますが。

 

とにかく、幕府としては、

ロシアの存在は認知していますが、

ロシアの実態どころか、

蝦夷地の北の樺太の実態すら知らない

状態でした。

 

そんな状況なので、

当然、ロシアのことを警戒します。

しかも、蝦夷地にはアイヌという民族

が住んでいるます。

 

もしかすると、

アイヌがロシアと交易しているかもしれない。

そんな心配もしていました。

 

そんな中、1792年に、

ロシア人が根室にやってきます。

そのやってきた人物が、

ラクスマンですね。

 

出展:ラクスマン | 世界の歴史まっぷ (sekainorekisi.com)

 

ラクスマンは「ラスクマン」では

ないので間違えないようにしましょう(笑)

くだらないことを書くと嫌われますが、

試験対策のため、申し上げます。

 

ラクスマンはなぜ来たのかというと、

伊勢の船頭だった大黒屋光太夫という

人物を届けるためです。

 

太夫は漂流民でした。

彼は嵐でアリューシャン列島に流れ着き、

そのままロシアに連れられ、

最終的にエカチェリーナ2世という

皇帝に謁見します。

 

凄い話ですね。

アリューシャン列島まで行ったというのも

凄いですし、エカチェリーナ2世を謁見する

のはとてもすごい話です。

 

ラクスマンはこの大黒屋光太夫

送り届けるのですが、

それで終わりではありませんでした。

 

出展:大黒屋光太夫の画像、名言、年表、子孫を徹底紹介 | 江戸ガイド (edo-g.com)

 

彼は日本との通商を要求します。

まあ、予測できることです。

しかし、日本はそれを拒否しました。

まあ、これも当然ですね。

 

ただ、この時、ただ単に拒否した

わけではありません。

ここ、間違わないでください。

 

老中の松平定信は、

長崎への入港許可書を

渡し、ロシアに帰ってもらいます。

 

要は、「長崎に来てもいいから、

今回はかえってください」

ということですね。

 

決して通商は許可していません。

ちなみに、当時、

長崎は唯一の交易港でした。

 

ただ、ラクスマンは納得しません。

「江戸港に行く許可をくれ」

と言います。

 

しかし、この要求も拒否します。

それでも、幕府は江戸港が危ないと考えるように

なりました。

そして、江戸港と蝦夷地の海防強化がなされます。

 

この頃、実は、ロシア人とアイヌ択捉島

交易を行っていました。

交易してたんかいっ!って感じですね(笑)

幕府の疑いは見事当たっていました。

 

そのため、ラスクマン来航から6年後、

幕府は近藤重蔵最上徳内らに

択捉島を探査させ、

その際に、「大日本恵登呂府」

という標柱を建てさせました。

 

出展:近藤重蔵: 仄聞百話 (cocolog-nifty.com)

 

これは、「択捉島は日本のものです」

という意味ですね。

幕府は択捉の外側に、ロシアとの

国境を引いたのです。

 

そして、蝦夷地に100人の入植者を

動員し、蝦夷地を永久の

直轄地、そこに住むアイヌ

和人としました。

 

ここで、注意してほしいのは、

蝦夷地と西蝦夷地の話です。

蝦夷地は北海道のおおよそ南側、

西蝦夷地は北海道のおおよそ北側です。

 

出展:蝦夷地を測る・津和野藩士 堀田仁助(10) 多発する海難事故 新航路開拓へ白羽の矢 | 山陰中央新報デジタル (sanin-chuo.co.jp)

 

幕府は東蝦夷地を直轄にしました。

なので、この時は、西蝦夷地は

直轄ではありません。

 

とりあえず、このような形で、

幕府は警備体制

強化します。

 

それでも、これで終わりではありません。

当然ですよね。

ロシアは長崎への入港許可書を持っています。

 

これは、幕府からすれば許可書ですが、

ロシアからすれば、

「来いよ」という振りのようなものです(笑)

 

当然、ロシアは長崎にやってきます。

ラクスマンが来てから12年が経った、

1804年のことです。

 

この時やってきたのは、

レザノフという人物です。

彼は再び通商を要求します。

 

出展:面白いほどわかるレザノフ来航!簡単に徹底解説【長崎に来た目的と幕府の対応がバッチリわかります】 | まなれきドットコム (manareki.com)

 

ロシア、諦めませんね(笑)

不屈の精神です。

それでも、幕府は翌年、

鎖国は祖法」として拒否します。

 

「祖法」はオランダ、中国、

朝鮮、琉球の4つの国以外とは、

通交しないというものです。

 

なかなかの強気です。

しかも、幕府は冷たくあしらいました

「あー、通商?無理っす。無理に

決まってるっしょ」的な感じでしょうね。

 

その結果、ロシア側はブちぎれます。

ロシアは、樺太択捉島を攻撃します。

これは、幕府にとって、未曽有のことです。

 

長い間平和が続いていた。

外国がせめてくることなんてなかった。

幕府はそう思いながら、衝撃を受けていました。

 

そして、幕府は警備をさらに強化します。

レザノフ来航から3年後の1807年、

幕府は西蝦夷地と松前藩を直轄化します。

 

ん?と思ったかもしれません。

どこが変化したのか?

簡単です。

 

ラクスマンの後は、

蝦夷地を直轄化しただけでした。

しかし、今回は、

西蝦夷地と松前藩を直轄化します。

 

松前藩というと、

松前氏が納める藩ですね。

北海道の南の部分にあります。

 

そこも直轄化したのです。

なので、レザノフ来航後は、

東西合わせた全ての蝦夷地と

松前藩が幕府の直轄地になりました。

 

それとともに、

幕府は蝦夷地と松前松前奉行に支配させ、

東北の諸藩に警備させます。

 

東北の諸藩をも巻き込んでいるくらいなので、

かなり警戒していますね。

 

幕府はここで終わらずに、

さらに、間宮林蔵という人物に

樺太とその対岸を調査させます。

 

間宮林蔵は、あの有名な、

間宮海峡を見つけた人ですね。

彼の発見した、樺太と大陸の間の海峡は

間宮海峡と名付けられます。

 

出展:間宮海峡(@LegendOfMamiya)さん / Twitter

 

彼は樺太を調査し、

樺太が島であるという

ことを明らかにしたのです。

 

樺太が島なのか大陸なのか、

ヨーロッパの中でも謎でした。

そのため、彼の功績は大きいですね!

 

ロシアとの関係はそののち、

「ゴローウニン事件」を機に

改善されます。

 

ゴローウニン事件とは、

国後島に上陸したロシア軍艦艦長の

ゴローウニンを日本が捕らえた事件です。

 

現代であれば、外交問題になりますね。

当時も同じでしょう。

ロシアは翌年、択捉航路を開拓した

淡路の商人の高田屋嘉平を捕えます。

 

出展:3月31日NHKBSプレミアム「英雄たちの選択。高田屋嘉兵衛」を見る。 新たに開業した北海道新幹線の北の玄関口・函館。この街の基礎を築いたのが豪商・高田屋嘉兵衛(1769〜 1 (hp-ez.com)

 

ちなみに、淡路(兵庫)の商人が

なぜ蝦夷地周辺にいたのかというと、

彼の経営する店の支店が

松前藩にあったからです。

 

このようにしてお互いに

相手の国の人を捕えたわけですが、

日本とロシアはこの2人を交換します。

 

こうして、

ゴローウニン事件は解決しました。

 

ロシアとの関係はこれで

落ち着きました。

しかし、これで終わりではありません。

 

完全な鎖国状態の中で、

それを脅かす国が他にもありました。

イギリスです。

 

1808年、イギリス船フェートン号が

長崎に侵入してきました。

この船は当時敵国になっていた

オランダの拿捕を狙って長崎に

来たのです。

 

この出来事は、

フェートン号事件

と呼ばれます。

 

出展:フェートン号事件 - HMS Phaeton (1782)#Nagasaki Harbour Incident - JapaneseClass.jp

 

当時、イギリスとフランスは

戦争状態で、オランダは

フランスの支配下にありました。

 

そのような状況で、

イギリスはオランダのアジア各地の

拠点を奪おうとしていたのです。

 

フェートン号は、

オランダ商館長を人質にし、

薪や水、食料を要求して退去しました。

 

この事件で、長崎奉行松平康英は責任を

感じて自殺し、佐賀藩主は処分されてしまいます。

なので、かなり大きな事件でした。

 

まあ、これに関しては、

日本は単に巻き込まれただけですね。

イギリスの狙いはオランダだったので(笑)

 

とはいえ、脅威があることに

かわりはありません。

このようなことは続きます。

 

1824年、イギリスの船が

大津浜に入り、薪水などを

要求して、水戸藩に逮捕

されるという事件が起こりました。

 

さらに、同年、

薩摩にある宝島という島で、

イギリス船が宝島に上陸し、

牛を奪う事件が発生します。

 

なぜ、ここまでイギリス船が来るのか

というと、イギリスはこの時、

捕鯨を盛んに行っていたからです。

なので、この2つの船は捕鯨船です。

 

出展:「捕鯨業」居然是美國五大GDP支柱產業之一,這些你知道嗎? - 每日頭條 (kknews.cc)

 

クジラの油は灯りの原料や

機械油に使われ、

需要が高まっていました。

そのため、捕鯨が盛んに行われたのです。

 

して、捕鯨の際の寄港地が日本でした。

太平洋などにはなかなか陸地がないため、

薪水を得るためには、日本に来るしか

なかったのです。

 

ですが、幕府はかなりのビビりでした。

とりま、薪や水を与える約束をし、

「そのかわりあまり近づかないでくれ」

そういえば、おしまいの話でしょう。

 

しかし、幕府は逆の対応をします。

それが、あの有名な

「異国船打ち払い令」です。

 

出展:https://twitter.com/hashtag/%E7%95%B0%E5%9B%BD%E8%88%B9%E6%89%93%E6%89%95%E4%BB%A4?src=hash

 

これは、1825年に出されました。

フェートン号事件の翌年です。

 

実は、もともと、薪や水を与えて

帰ってもらう対応を取っていたのですが、

方針転換しました。

 

異国船うち払い令は、

中国、朝鮮、琉球の船は対象外で、

オランダ船は長崎以外の場所では

うち払うことになっていました。

 

そして、

ある事件が起こります。

モリソン号事件です。

 

モリソン号は、日本人漂流民7人の送還と

通商交渉をするために

マカオから派遣されたアメリカの船です。

 

モリソン号は、

浦賀で砲撃を受け、

その後薩摩に停泊したところ、

また砲撃にあい、マカオに引き返しました。

 

このような形で、

異国船をうち払っていたのですが、

そんな中で、幕府は海外で起きた衝撃的な

出来事のことを知ります。

 

それが、アヘン戦争です。

アヘン戦争は、イギリスと清の

戦争です。

 

出展:「アヘン戦争戦闘図」 - 仰陽記 (fc2.com)

 

アヘン戦争は、清がアヘンの

輸入を拒否したことで起こった

戦争です。

 

イギリスは紅茶の国ですよね。

なので、その原料となる茶を

清から購入していました。

 

その際、銀を使って茶を購入していた

のですが、銀の流出が課題になりました。

そこで、インドを利用することを

考えます。

 

出展:アメリカと中国の関係①(アメリカ高校留学) (intraxjp.com)

 

まず、イギリスは、清に銀を払い、

清から茶を輸入します。

その後、インドに清から銀を輸入してもらい

イギリスは、その銀をインドから輸入します。

 

こうすると、銀は清からインドへ行き、

インドからイギリスへ戻ってくるのです。

賢いですね!

 

そして、清がインドに銀を輸出する代わりに、

インドが輸出したのがアヘンでした。

この結果、清国内でアヘンが蔓延することに

なります。

 

この後、いろいろあり、

イギリスと清は戦争を

することになります。

 

これがざっくりとしたアヘン戦争の流れです。

この説明だけでは、すっきりしない部分が

たくさんあると思いますが、

世界史の記事ではないので、割愛します。

 

この戦争の結果、清は惨敗します。

そして、南京条約を結び、

香港は割譲。

清は開国させられました。

 

このような事実を知った幕府は

またビビります。

その結果、また方針を転換させます。

 

それが、天保の薪水給与令」です。

これは、漂流した船には薪や水、

食料をあたえよというもので、

老中の水野忠邦が出しました。

 

出展:水野忠邦(江戸時代) | 日本の歴史を分かりやすく解説!! (xn--u9j228h2jmngbv0k.com)

 

それでも、鎖国は続けます。

途中、オランダ国王が、

開国すべきだと勧告しましたが、

それも拒否します。

 

そして、天保の薪水給与令を出してから

11年後の1853年、ペリーが浦賀

到着します。

 

以上が鎖国の動揺です。

今回の話は、①ロシア

②イギリス、アメリカの捕鯨船

アヘン戦争、④薪水給与令

 

のような感じでした。

まあ、言ってみれば、

起承転結のようなものでしょう。

 

起:ラクスマン到着~ゴローウニン

承:フェートン号事件~異国船打ち払い令

転:アヘン戦争

結:天保の薪水給与令

 

といった感じですね!

 

今回の内容は比較的、

頭にはいりやすいと思います。

 

最後まで読んでいただき、

ありがとうございました