nihoonshibenkyouの日記

 私大の日本史で点数がとれない。そんな受験生に、ストーリーで学ぶ勉強法をお教えします!

大日本帝国憲法の内容は○○でマスターできる!

こんにちは!マロです!

 

さっそくですが、

大日本帝国憲法

について説明できますか?

 

「戦前の憲法ということ

しかわからない」

伊藤博文しかわからない」

そんな風に思っていませんか?

 

もし、

そう思っているのであれば、

かなり危険です。

 

なぜなら、

大日本帝国憲法は、

丁寧に学習しないと

頭にはいらない内容だからです。

 

もし、なんとなく暗記し、

正誤問題でここについての

問題が出てくれば、

確実に点を落とします。

 

ここで点を落とし、

受検に落ちる。

そんなの嫌ですよね?

 

 

一方で、もしこの記事を読み、

しっかり勉強すれば、

確実に受験に受かります!

 

 

さっそく解説していきます!

 

大日本憲法で重要なのは、

天皇の存在」です。

世界の日本国憲法との大きな違いは、

天皇の存在です。

 

ネタバレになりますが、

この憲法「欽定憲法

と呼ばれるものです。

 

欽定憲法とは、

天皇が定め、国民に

授ける憲法という意味です。

 

出展:1889年2月11日 大日本帝国憲法発布の日 (archives.go.jp)

 

なので、この憲法は、

天皇が国民に授けたもの

ということですね!

 

この憲法は、語弊がありますが、

むちゃくちゃ簡単に言うと、

天皇が政治を行使しています」

というスタンスの憲法です。

 

ところで、

そもそも、

憲法とはどういったものでしょう?

 

これが分かっていないと、

日本が憲法を制定した

理由がわかりませんよね。

 

憲法」とは、

「国民の権利や自由を守るために、

国家権力を制限するもの」です。

 

たとえば、憲法がなかった場合、

政府の政策に反対した人を

皆殺しにする法律が

制定されるかもしれません。

 

まあ、議会の仕組み上、

そんなことは起こらないかも

しれませんが、場合によっては、

議会の維持すら危なくなるかも

しれません。

 

こうなる可能性がある理由は

簡単ですよね?

国家を縛る法律がないからです。

 

このように、国家が国民の人権を

みだりに侵害したりしないために

憲法があるという考え方を

立憲主義と言います。

 

自由民権運動の部分で、

立憲改進党というものが出てきますが、

この政党の背景には、

このような考え方があります。

 

要は、「法の支配」ということです。

法が権力者の上にあり、

権力者であれど、法に従わなければ

ならないということです。

 

出展:山川&二宮ICTライブラリ (ywl.jp)

 

明治時代より前は「人の支配」でした。

しかし、憲法が制定されたことで、

「法の支配」に変わったのです。

 

なので、大日本憲法には、

天皇ですら逆らえません。

日本は、天皇よりも、憲法の方が

上にある国になったということですね。

 

ところで、なぜ、

憲法が必要だったのでしょう?

それは、簡単ですね。

 

日本が近代国家であることを

アピールするためです。

 

日本の最大の悩みは

不平等条約でした。

これを解決するには、日本が

法治国家であると示す必要があったのです。

 

日本が江戸時代だった1787年

アメリカではアメリカ合衆国憲法

制定されます。

 

アメリカ合衆国憲法の制定 | 世界の歴史まっぷ | 憲法記念日, 世界の歴史, 歴史

出展:アメリカ合衆国憲法の制定 | 世界の歴史まっぷ | 憲法記念日, 世界の歴史, 憲法 (pinterest.jp)

 

これは、世界で初めての近代憲法です。

その後、ヨーロッパ諸国でも

憲法が制定されます。

 

これは18世紀の終わりごろなので、

日本では、田沼意次あたりの時期

ですね。

 

その後、19世紀になると、

憲法が近代国家の証になります。

大日本帝国憲法

このような経緯があってのことです。

 

日本はこのようにして、

近代国家としての体裁を整え、

植民地化を免れた

ということですね。

 

もともと明治政府は、

討幕に協力した薩摩藩

長州藩土佐藩に強い権限を

与えていました。

 

そのため、

薩長を中心とする

政治がおこなわれていました。

 

そんな中、1874年には、

板垣退助後藤象二郎らにより、

民撰議院設立の建白書が

提出されます。

 

これは、

薩長中心の政治を批判し、

国会の解説を主張するものです。

 

その後、板垣退助大久保利通

会談し、政権に復帰します。

実は、板垣退助

政府を降りていました。

 

この時、板垣退助が復帰する

条件として、立憲制へ徐々に

移行することが約束されたのです。

 

この時、実は自由民権運動という

ものが起こっていたのですが、

その後、自由民権運動が全国化します

 

自由民権運動

出展:日清戦争の全容に迫る!【4】日清戦争前夜の日本の情勢 (tetsu-log.com)

 

自由民権運動は、憲法制定や国会開設を

求める政治運動です。

民撰議院設立の建白書がきっかけで

起こりました。

 

そんな中、政府の中では、

自由民権運動への対応策をめぐり、

意見が割れていました。

 

伊藤博文は、国会開設は時期尚早

と言い、大隈重信は、

国会はすぐに開くべきだ

と主張していたのです。

 

その後、官有物払下げ事件という

汚職のような事件が起こり、

その事件をきっかけに、

大隈重信を政府から追放します。

 

この事件に関しては、

情報過多になるため、

ここではあまり触れません。

 

とりあえず、

大隈重信を政府から追い出した出来事を

「明治十四年の政変」といいます。

 

そして、この時、政府は、

10年後に国会を開設することを

約束します。

 

ここまでの流れとしては、

簡単にまとめると、

多くの人が、広く開かれた議会を

望んでいたということですね。

 

政府もこれに同調するのですが、

政府内で意見が分かれていました。

意見の対立の形としては、

先述した通りですね。

 

大隈重信は、

「今すぐ国会開こうぜ!!」

と言っていました。

 

それに対し、伊藤博文は、

「国会はまだ早い!」

と言っていたのです。

 

ここ、勘違いしないでください!

2人とも、国会開設には賛成でした。

しかし、国会開設の時期をめぐり、

意見が分かれていたのです。

 

そして、

明治十四年の政変で、

大隈重信を追い出します。

 

ということは、すなわち、

「今すぐ国会開設すべき」

という意見を排除したということですね。

 

なので、伊藤博文

国会開設や憲法作成の

中心になっていきます。

 

明治十四年の政変の翌年の

1882年、政府は伊藤博文らを

ヨーロッパに派遣し、

憲法理論を学ばせます。

 

伊藤博文はドイツに行き、

グナイストシュタインという

2人の人物から

憲法理論を学びます。

 

出展:伊藤博文を暗殺した安重根 | 江夏正敏(えなつまさとし) 幸福実現党・幹事長のオフィシャルブログ (enatsu-masatoshi.com)

 

グナイストはベルリン大学

法学者です。

シュタインは、ウィーン大学

国家学の教授です。

 

なので、

伊藤博文の学んだのは

ドイツ流の憲法ですね。

 

ところで、なぜ、

ドイツなのでしょう?

その答えは、この記事の

冒頭の内容あたりにあります。

 

答えは、ドイツの憲法は、

君主制が強いものだから

です。

 

江戸時代、日本は、

実質的な政治は

将軍が行っていました。

 

しかし、

それが行き詰まり、

政権が天皇に返されたのです。

 

出展:明治天皇とは何? わかりやすく解説 Weblio辞書

 

それでも、いくつかの政党が結成され、

主権は国民にあるというフランス流や、

国民と天皇が一緒に国を統治すべき

というイギリス流の考えも出てきます。

 

それでも、というより、

それらに対抗する形をとったのか、

政府は天皇が国を統治する

というスタイルを選択します。

 

なので、ドイツ流の憲法

参考にしました。

納得いく話ですね。

 

その後、伊藤は帰国し、

1884年には華族

出されます。

 

これは、爵位を定め、

その爵位

旧大名、公家、維新の功労者に

授与するものです。

 

これは、貴族院の準備ですね。

その1年後の1885年には、

内閣制度が制定されます。

 

この時、太政官制が廃止されました。

太政官制とは、太政官をトップとする

政治体制です。

 

太政官には、行政、司法、

立法が置かれ、

形式的に三権分立の体制を

とっていました。

 

一方で、内閣は

内閣総理大臣をトップとし、

そこに各省を置く

ものです。

 

この時までは、

各省庁のトップは、

○○卿と呼ばれていたのですが、

それが○○大臣にかわります。

 

ちなみに、ここまでの説明には、

少し語弊があります。

太政官制、内閣制度とも、

最高権力者は天皇です。

 

なので、各大臣は

天皇を個別にサポートする

のが仕事でした。

 

まあ、というよりは、

そういう解釈なのですが(笑)

 

そして、後に、

裁判所と、

議会は内閣の外に置かれます。

 

まあ、徐々に制度が整っていくので、

次の動きを見ていきましょう。

次は、1886年枢密院設置です。

 

枢密院とは、憲法、選挙法など

特別な法律、会計、条約などについて、

天皇の諮問(意見を求めること)に

答える機関のことです。

 

伊藤らは、

ここで、

憲法草案を審議しました。

 

憲法の草案審議には、

ドイツ人顧問のエス・レル

助言を求めました。

 

出展:幕末写真館 (dokidoki.ne.jp)

 

この時、

伊藤博文

枢密院議長を務めます。

 

実は、伊藤は内閣制度制定時、

総理大臣だったのですが、

枢密院で活動するにあたり、

首相の座を黒田清隆に譲りました。

 

そして、枢密院には優秀な仲間たちが

いました。

井上毅、伊東巳代治、金子堅太郎の

3人です。

 

井上毅は印象的ですね。

「こわし!」みたいな、

怖い人なのかな?みたいな

感じですね(笑)

 

この人は、ドイツ憲法

翻訳します。

ドイツ語がバリバリにできた

ということですね。

 

伊東巳代治(みよじ)は伊藤の

憲法調査に同行した人です。

金子堅太郎は、

アメリカで法律学を学んだ人物です。

 

憲法作成は主に、

伊藤博文とこの3人が

中心になって進められました。

 

そして、憲法が完成します。

1889年、黒田清隆内閣のもと、

大日本憲法が発布されました。

 

出展:1889年2月11日 大日本帝国憲法発布の日 (archives.go.jp)

 

これは、先ほど述べた通り、

天皇が定め、

国民に授ける憲法です。

 

この憲法では、

天皇は国の元首であり、

統治権を総攬するもの

であると定められています。

 

これは要するに、

日本は天皇が統治している

ということですね。

 

そのうえで、国民は臣民

いう立場です。

臣民は天皇に支配される立場の

民ということですね。

 

そして、

臣民は法律の範囲内で

権利が保障されます。

 

天皇が支配権をもっていると

いうことですね。

なので、政治組織もそのように

組織されます。

 

内閣に関しては

先ほど説明しました。

総理大臣がトップで、

その下に各省がある状態です。

 

内閣は、行政ですね。

行政は政策を実施する

ところです。

 

ところで、政府には、

他にも権力を持っている

ところがありますよね?

 

立法と司法です。

立法は法律を作るところ、

司法は裁判をするところですね。

 

出展:【概要】大日本帝国憲法下の国家機構 – 太平洋戦争とは何だったのか (historyjapan.org)

 

大日本帝国憲法のもとでは、

立法府も司法府も行政府も

天皇の下で並んだ状態です。

 

一応3権は分立しているのですが、

現代のように相互に監視し合う

体制はとっていません。

 

なので、

三権分立というより、

三権独立のような状態です。

 

そのうえで、立法府である

議会は、衆議院貴族院の2つで

構成されています。

 

衆議院は民衆の選挙によって

選ばれた人が議員になります。

といっても、選挙に行ける人は

限られていたましたが。

 

まあ、一応は、

民衆の選んだ人が

議員になるという状態ですね。

 

一方で、貴族院は、

華族身分の議員である華族議員と、

天皇が選ぶ勅任議員に2つで構成されて

いました。

 

そして、

両院は同等の権利を持ちました。

ここ、間違わないでください!

 

そのうえで、

「宮内府中の別」

というルールがありました。

 

これは、宮内省

内閣の外に置かれる

ということです。

 

そして、天皇には、

天皇大権」

というものがありました。

 

出展:『陪審手引』で見る裁判員制度(1)|トピックス|裁判員制度はいらないインコのウェヴ大運動 (saibanin-iranainko.com)

 

これは、

天皇には政府が

関与できない権限がある

ということです。

 

たとえば、

統帥権」や「緊急勅令」

宣戦・講話や条約の締結、

戒厳令」などが挙げられます。

 

統帥権は、

軍の指揮権のことです。

現代は、文民統制と言い、

一般民衆が軍隊を統制するように

なっています。

 

と言っても、

日本は軍隊を持っていないので、

軍隊の代わりに自衛隊の統制

ではありますが。

 

当時は、

軍の統制権は天皇

ありました。

 

天皇が軍を動かすとき、

陸軍や海軍がサポートする

という体制を取っていました。

 

まあ、建前だけで、

実際は後に軍隊が暴走するのですが、

その裏には、こういった

政治背景があったのです。

 

「緊急勅令」

議会を通さなくても

法律を作ることができる

ということです。

 

ただ、あとで承認は

必要です。

 

戒厳令

戦争や内乱などの非常時に、

立法権司法権、行政権の一部、

またはすべてを軍に委ねることです。

 

戒厳令」は何回か出されます。

が、意外に、教科書にも資料集にも

説明がないので、覚えておいてください。

 

以上が大日本憲法についてです。

大日本憲法ができる前に、

私擬憲法がいくつか作られるのですが、

それは今回は割愛します。

 

今回の内容は、

内容量が多いです。

しかも、公民のような

内容も含まれています。

 

なので、

ここをマスターするためには、

しっかりとした復習が必要です。

 

復習の流れとしては、

以下の4つです。

 

①この記事を読み直す

 

憲法誕生までの流れを、

教科書などを読みながら学習する。

 

③現代の憲法と比較し、

明治憲法の文脈をつかむ。

 

④入試問題を解いてみる。

 

以上の4つです。

 

とはいえ、

いきなり4つやるのは

大変ですよね?

 

なので、まずは、

「この記事を読み直す」

ということをやってみてください!

 

最後まで読んでいただき、

ありがとうございました。