nihoonshibenkyouの日記

 私大の日本史で点数がとれない。そんな受験生に、ストーリーで学ぶ勉強法をお教えします!

桓武天皇の政治は○○でマスターできる

こんにちは!マロです!

 

さっそくですが、

桓武天皇の政治について

説明できますか?

 

聖武天皇桓武天皇

違いがわからない」

「名前だけ覚えてる」

そんな風に思っていませんか?

 

もし、そう思っているのであれば、

かなり危険です。

なぜなら、古代は内容が多いからです。

 

古代は民衆や外交の話は少ないですが、

政治の話は多いです。

なぜなら、古代は政治体制を

整えている時期だからです。

 

中世になると、武家政権が成立します。

その際、土地制度は整えられており、

領土拡大もありません。

 

しかも、室町時代には、

自治を行う村や都市が

出てきたりします。

 

江戸時代になると、

商人の活躍があったり、

藩が力を持ったり、

民衆が様々なアクションを

起こしたりします。

 

一方で、古代は、

土地管理の仕組みや税制が

まだまだ整えられていません。

 

そのため、朝廷は

施行錯誤します。

なので、内容が多いのです。

天皇もたくさん出てきます。

 

そんな状態であれば、

当然抜けが出てきます。

譲位なども多いため、

余計にです。

 

桓武天皇の政治に関しても、

どこか抜けがあるかもしれません。

内容は多くありませんが、

油断はできません。

 

丁寧に勉強しなければ

ならない箇所が

いくつかあります。

 

なので、もしこの記事を読まず、

桓武天皇の政治を勉強しなければ、

受検で不合格になります。

そんなの嫌ですよね?

 

 

一方で、もしこの記事を読み、

桓武天皇の政治を勉強すれば、

受検に合格することができます。

 

 

というわけで、

さっそく

解説していきます。

 

桓武天皇光仁天皇の息子です。

光仁天皇称徳天皇の次の天皇ですね。

称徳天皇聖武天皇の娘で、

もう一度天皇になりました。

 

そして、道鏡という、

世話をしてくれたおぼうさんに

皇位を譲ろうとしました。

 

称徳天皇は、

言ってみれば、奈良時代

ヤバめの天皇ですね。

 

称徳天皇はそのまま死に、

後継者が決まっていなかったの

ですが、藤原百川らの尽力により、

光仁天皇が即位します。

 

ただ、光仁天皇は、

天皇即位時点で高齢でした。

おじいちゃんだったということ

ですね。

 

なので、皇位をすぐに譲ります。

この時、皇位を譲り受けるのが、

桓武天皇なのです。

 

出展:桓武天皇の生涯を簡単にわかりやすく徹底解説!【年表付まとめ】 | まなれきドットコム (manareki.com)

 

とはいえ、実は、

もともと桓武天皇

皇位継承の候補ではありませんでした。

 

その理由は、彼の血筋にありました。

桓武天皇の母の高野新笠は、

渡来系氏族の血を

引いていました。

 

少し違うかもしれませんが、

今でいうところの、

在日コリアンのようなものでしょうか。

 

そして、残念なことに、

母親の血筋が原因で、

天皇の候補に入っていませんでした。

 

さらに、

桓武天皇は母親の血筋に

コンプレックスを抱きます。

 

個人的には、外国人の血筋を引く

ということにコンプレックスを

抱くのは残念だと思います。

 

今の日本には、韓国人の血を引く

韓国人や日本人がたくさんいますが、

それで差別とか、コンプレックスとかは

あまりないかもれません。

 

というより、あってほしくないですね。

しかし、ここでは、血筋が問題になりました。

それでも、桓武天皇天皇になります。

 

ただ、桓武天皇自身はコンプレックスを

抱いていたので、

自らの即位の正当性を主張しようと努力します。

 

その際、桓武天皇が行った政策が

大きく2つあります。

1つ目が、都の造営で、

2つ目が蝦夷との戦争です。

 

まず、都の造営ですが、

具体的には、長岡京への

遷都ですね。

 

出展:桓武天皇と平安京遷都|中学生のための、よくわかる歴史 (wakaru-rekisi.com)

 

長岡京は山背国です。

山背国は京都府南部あたりです。

山背国は大和国の背後にあることから、

山背国という名前になりました。

 

山背国は水運などの交通の便がよい

地域でした。

しかも、もともと首都だった平城京

奈良にあります。

 

なので、奈良の勢力を排除する

意味もありました。

さらに、天智系へ皇統が

戻ったことの象徴という意味もあります。

 

どういうことかというと、

実は、光仁天皇天智天皇の孫なのです。

大友皇子天武天皇壬申の乱で争いました。

 

天武天皇大海人皇子という名前でした。

2人は政権を掛けて争い、

大海人皇子が勝ちます。

それからは、ずっと天武天皇の血筋の

皇族が天皇でした。

 

出展:桓武天皇と平安京遷都|中学生のための、よくわかる歴史 (wakaru-rekisi.com)

 

これらのような理由から、

長岡京を造作し、

遷都しようとしたのですが、

事件が起こります。

 

藤原種継暗殺事件です。

種継は藤原宇合の子どもです。

宇合は藤原四氏のうちの式家の

人物ですね。

 

ちなみに、北家の房前、南家の武智麻呂、

京家の麻呂もよく試験に出るので、

押さえておきましょう。

 

話をもとに戻します。

藤原種継長岡京造営の主導者でした。

桓武天皇は種継のことを

とても信頼していました。

 

種継は桓武天皇にとって、

右腕のような存在だったのです。

そんな大切な部下が暗殺されました。

桓武天皇は黙っちゃいません。

 

桓武天皇は、早良親王や、

大伴氏、佐伯氏らを退けます。

彼等は暗殺事件の首謀者とされ、

早良親王流罪になります。

 

出展:怨霊となって祟った・早良親王の魂は、世に災いを及ぼす鬼のような存在だったのか? | 歴史人 (rekishijin.com)

 

ちなみに、早良親王桓武天皇

弟です。

早良親王は自ら食を絶って死にました。

 

その後、桓武天皇の母親や奥さんが

相次いで死にます。

いくら何でも、母親と奥さんが

連続して死ぬのはおかしいですよね。

 

なので、これは早良親王

たたりではないかとされました。

あり得なくはない話ですね(笑)

 

このことを受け、

桓武天皇は、平安京へ遷都します。

これは和気清麻呂による建議です。

 

ちなみに、

長岡京がなかなか完成しないことも、

平安京遷都の理由です。

 

長岡京平安京は共に

山背国にあります。

この時、山背国の漢字を

山城国」に改めました。

 

出展:平城京クロニクル 対談 都遷り ――寧楽の京と、そのあと先千田稔×里中満智子  安藤寿和子・構成 Wedge ONLINE(ウェッジ・オンライン) (ismedia.jp)

 

長岡京平安京

めちゃくちゃ近いです(笑)

遷都というより、軽い引っ越しですね(笑)

 

平安京遷都は794年(鳴くよ)なのですが、

ここから鎌倉に幕府が開かれるまでの

約400年間を平安時代といいます。

 

 

ここまでが都の造営についてです。

次は、蝦夷との戦いについて見ていきます。

 

その前に、蝦夷とのこれまでの戦いについて

触れておきます。

まず、孝徳天皇の時には、渟足柵と磐舟柵が

設けられました。

 

この2つの柵は日本海側の

今の新潟県のあたりに設置されました。

今回の内容の範囲ではありませんが、

地図で場所を押さえましょう。

次に、斉明天皇の時には、

阿倍比羅夫という人物が

派遣されました。

 

その後、元明天皇の時には、

多賀城が築かれます。

そして、出羽国が設置されます。

 

出展:日本史|拡大する東と西の境界 (chitonitose.com)

 

孝徳天皇は、大化改新の時の天皇

斉明天皇はその次の天皇ですね。

 

ちなみに、孝徳天皇の時の2つの柵ですが、

フェンスのような柵ではなく、

建物があるものでした。

 

出展:渟足柵ってなに? 新潟市東区 (niigata.lg.jp)

 

多賀城に関しては、鎮守府という

ものが置かれます。

鎮守府とは蝦夷討伐のために

置かれた軍政機関です。

 

要は、軍の拠点のようなものですね。

この鎮守府は先述した通り、

多賀城に置かれていたのですが、

その多賀城が焼かれてしまいます。

 

焼いた犯人は伊治呰麻呂という人物です。

彼は、蝦夷の豪族です。

この事件は光仁天皇の時に

発生します。

 

ちなみに、伊治呰麻呂がなぜ多賀城

焼いたのかはわかりません。

彼は蝦夷出身だったので、

それが関係しているのかもしれませんね。

 

とにかく、多賀城が焼かれるということは、

大変なことです。

なぜなら、多賀城には鎮守府という、

軍事基地があるのですから。

 

これは、海外に派遣した兵士の

駐屯基地がつぶされたイメージですね。

この後、東北では三十数年間戦争が

相次ぎます。                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                  

 

ここからが、今回の内容なのですが、

桓武天皇は、征夷大使を派遣し、

蝦夷を討幕しに行きます。

ですが、阿弖流為という蝦夷

首長が強くて勝てませんでした。

 

なので、ここで、坂上田村麻呂という

人物を征夷大将軍として派遣します。

坂上田村麻呂は新たに胆沢城を築き、

そこに鎮守府を移します。

 

そして、そのさらに北に、

志波城を築きます。

どんどん北に攻めていった

ということですね。

出展:【高校日本史B】「平安時代3(第2問)」(問題編2) | 映像授業のTry IT (トライイット) (try-it.jp)

 

ここで注意してほしいのは、

渟足柵、磐舟柵、は西側、

多賀城、胆沢城、志波城は

東側ということです。

 

要は、桓武天皇の時は、

東側で軍事行動を行います。

と言っても、言葉で伝えるのには

限界があるので、地図で押さえてください。

 

出展:日本史|拡大する東と西の境界 (chitonitose.com)

 

桓武天皇は、このような形で2つの

政策を行ったわけですが、

この2つの政策は財政や、

民衆の負担になります。

 

また、地方政治も

財政悪化の原因でした。

そのため、そこも改革する必要が

ありました。

 

そこで、桓武天皇は、

負担軽減策を講じます。

 

まず、健児の制を定めます。

これは、諸国の軍団を廃止し、

兵士は一般庶民ではなく、

郡司の子弟や志願した有力農民から、

採用するということです。

 

要は、一般民衆の兵役がなくなった

ということですね。

代わりに、郡司の子弟などが

兵士にさせられます。

 

と言っても、郡司の子弟や

志願した有力農民だけでは

圧倒的に数が少ないはずです。

 

なので、少人数精鋭ですね。

実は、一般的な兵士の質が

低下していました。

 

出展:サバゲーマーで女性との出会いを求める人に提案したいこと1つ | おたまちゃんねる (otamachannel.com)

 

そういうこともあり、

健児を採用したのですね。

ただし、これは東北と九州を

除きます。

 

次に、雑徭の60日を減らし、30日にします。

雑徭とは、

地方での労働ですね。

 

具体的には、国司のもとで、

約2カ月間、土木工事や国府の雑用などを

するというものです。

これが、約1か月に減ります。

 

さらに、勘解由使という役職を設置します。

これは、律令制度の中にはないので、

令外官と呼ばれる役職の一つです。

 

令外官とは、

律令制度の規定にない

役職という意味です。

 

そもそも、律令制度は

律=刑法

令=行政法 

という意味ですね。

 

なので、令外官

令=行政法

の外の官職ということです。

令外官の人事は天皇が直接任命します。

 

そんな令外官である勘解由使なのですが、

これは国司の税徴収や

国司交代時の不正を調べ、

取り締まる役人です。

 

実は国司交代時のトラブルが

多発していました。

国司は中央から派遣され、

任期は6年(のち4年)です。

 

そんな国司は地方で強力な

権力を持っていました。

なので、農民たちから

不当な搾取を行います。

 

そして、

不正や賄賂を繰り返していました。

国司は任期が終わると、

別の土地の国司になったりしていました。

 

ただ、国は自分が新天地へ行くのはよくても、

自分の築き上げた利権を新しい国司

渡すことは拒みます。

そこで、トラブルが起こっていたのです。

 

 

そのため、国司交代時のトラブル解決や

トラブルの元となる国司の不正を

取り締まるために勘解由使

設けられました。

 

この他、班田の実施を6年から12年に

一度にしたり、

公出挙の利息を5割から3割にしたりしました。

 

班田は、6歳以上の男女に田んぼを配ることですね。

ここには当然、租と呼ばれる税が付きます。

公出挙は、国が稲を強制的に貸し出し、

秋に収穫したコメを利息と共に回収するものです。

 

どちらも民衆の負担になっていました。

そのため、

どちらも緩和します。

 

しかし、どちらも十分な効果を

上げることはできませんでした。

そこで、桓武天皇は、

徳政相論という議論を実施します。

 

この時、藤原緒嗣は2大事業反対派で、

菅野真道は2大事業賛成派でした。

桓武天皇は、この2人の論争を聞き、

菅野緒嗣の意見を採用します。

 

出展:www.ainokobuncho.com

 

こうして、2大事業は廃止になりました。

この後、桓武天皇崩御し、

平城天皇が即位します。

 

 

以上が桓武天皇の政治です。

今回の内容は、

内容量自体は多くありませんが、

しっかりと押さえなければいけない

ところがいくつかあります。

 

たとえば、

蝦夷討伐の部分や

民衆の負担の部分です。

 

具体的には、蝦夷討伐は

地図でも押さえるということや、

雑徭の半減の具体的な期間などです。

 

そのため、この記事を読むだけでは、

ここを身に付けることはできません。

なので、ここからさらに勉強する必要が

あります。

 

勉強するステップは

3つあります。

 

①この記事を読み直す

 

②それをもとに、何も見ず、

今回の内容を自分で説明できるようにする

 

③入試問題の該当箇所を解いてみる

 

という3つです。

とはいえ、

いきなり3つやるのは大変ですよね?

 

なので、まずは、

「この記事を読み直す」

ということをやってみてください!

 

最後まで読んでいただき、

ありがとうございました。