nihoonshibenkyouの日記

 私大の日本史で点数がとれない。そんな受験生に、ストーリーで学ぶ勉強法をお教えします!

江戸時代初期のヨーロッパとの外交は○○でマスターできる!

こんにちは!マロです!

 

さっそくですが、

「江戸時代初期の

ヨーロッパとの交易」

を説明することは出来ますか?

 

江戸時代初期のヨーロッパの交易は、

幕府が禁教令を出す前のことを

指します。

 

「日本が交易を結んだのはオランダだけ

でしょ?」

「他の国もいたけど、他の国は日本から

追い出されて終ったよね」

そんな風に思っていませんか?

 

江戸時代は鎖国のイメージが大変

強いです。

そのため、ここは見落としがちです。

 

実際は、スペインやポルトガルとの

関わりがあり、そこもちゃんと

内容があります。

 

内容がないと勘違いしたり、

おまけ程度に思っている。

あるいは、ちゃんと内容を理解できて

いないのは、かなり危険です。

 

なぜなら、ここも受験で出題される

可能性があるからです。

 

基本的に、日本史の受験では、

戦時中やそれ付近、戦後以外であれば、

基本的にどこでもがっつし出る可能性があります。

 

戦時中や戦後史ですら、1問2問出る可能性

があるのですから、

ここは出る可能性も十分にあるでしょう。

 

というより、基本的に、江戸時代は出やすいので、

ここが出る可能性も十分にあり得ます。

決していい加減にしてはいけません。

 

もし、ここをいい加減にすると、

ここの部分で点が取れず、

受験に落ちてしまいます。

そんなの嫌ですよね?

 

 

けど、もし、この記事を読み、

勉強すれば、

確実に点を取ることができ、

受検に合格することができます。

 

 

というわけで、

さっそく解説していきます。

 

 

鎖国というと、

国を閉ざすイメージがあるかもしれませんが、

江戸時代はずっと海外と国交がありました。

 

ただ、幕府はキリスト教を禁止したかったので、

最終的に、ヨーロッパの中で

国交を持つ国はオランダに限りました。

 

出展:【オランダ国旗の意味と由来】昔はオレンジ色だったって知ってた? | traveloglog (tabino-oboegaki.com)

 

オランダに限定した理由は簡単で、

オランダはキリスト教の布教と、

貿易が別だったからです。

 

オランダというより、

イギリスとオランダです。

この2つの国は、キリスト教の布教

と貿易が別でした。

 

これはつまり、貿易するからといって、

日本での布教活動を許可しなければ

いけないということではありません。

 

日本が「貿易しましょう、でも、キリスト教

布教は禁止です」と言っても、

イギリスとオランダは日本と貿易

してくれたのです。

 

ちなみに、余談ですが、

イギリス人やオランダ人を

当時の日本人は「紅毛人」と

呼びました。

 

出展:紅毛人巡見之図 OLIFANT uurwerk 文化遺産オンライン (nii.ac.jp)

 

一方で、スペインやポルトガル

は貿易とキリスト教布教がセットでした。

キリスト教の布教を認めなければ、

貿易はしないということですね。

 

このスペイン人やポルトガル人のことを

南蛮人」と呼びました。

つまり、「南蛮貿易」は

スペイン人、ポルトガル人との貿易ですね。

 

イギリスとオランダはプロテスタントの国で、

スペインとポルトガルカトリックの国だったので、

宗派の違いが、布教に関する考得方の違いを生んだの

でしょう。

これは余談です(笑)

 

南蛮貿易は、戦国時代に始まりました。

織田信長キリスト教を擁護したのですが、

豊臣秀吉は過激なやり方でキリスト教

布教を禁止します。

 

具体的には、長崎での宣教師、信者の

処刑ですね。

かなり過激です。

 

それでも、ポルトガルの貿易は続きます。

一方で、イギリス人やオランダ人といった

紅毛人は、南蛮人より遅れ、

江戸時代初期の頃に、日本にやってきます。

 

なので、登場するヨーロッパの国は、

スペイン、ポルトガル、イギリス、

オランダの4カ国ですね。

 

最終的には、幕府の禁教体制が徹底されていき、

3代将軍家光の時には、鎖国体制に

なりました。

 

鎖国体制になった流れにも詳しく触れたい

ところですが、

それだと情報過多になるため、

今回は鎖国前のヨーロッパに限ります。

 

まず、もともと交易していた国は、

スペインやポルトガルですね。

いわゆる南蛮人の国です。

 

しかし、スペインとは、国交断絶していました。

その理由は、豊臣秀吉が長崎で宣教師や信者を

処刑したからです。

これは、サン=フェリペ号事件というやつですね。

 

出展:サン=フェリペ号事件 - 浦戸の歴史 - 高知市立浦戸小学校 (kochinet.ed.jp)

 

この時代、基本的にそうですが、

秀吉のせいで、いくつかの国と

関係が悪くなっています(笑)

 

いくつかと言っても、

そもそもでもともと国交があった国が

少なかったので、国としては

スペイン、朝鮮、明だけなのですが

 

それでも、影響は大きいですよね。

徳川政権は、それらの国との

国交の回復に努める必要が出てきます。

大変ですね。

 

スペインに対しては、

京都商人の田中勝介をノヴィスパンに

派遣し、通商交渉をします。

 

ちなみに、ノヴィスパンは

昔のメキシコの呼び名です。

この時、たまたまドン=ロドリゴ

という人物が日本に漂流してきていました。

 

出展:家康とドン・ロドリゴ | 出版書誌データベース (books.or.jp)

 

彼は、前ルソン総督、つまり、

フィリピンの総督でした。

田中勝介はドン=ロドリゴ

送還する際に同行し、通商交渉をします。

 

しかし、国交は回復しましたが、

通商の回復は果たせませんでした。

そこで、今度は、別の人物が

立ち上がります。

 

それが、仙台藩主の伊達政宗です。

政宗は大国スペインとつながることで、

スペインを後ろ盾にし、

討幕しようと考えていたのです。

 

伊達政宗は、家臣の支倉常長らをスペインに

派遣し、メキシコとの直接貿易を果たそうと

するのですが、失敗します。

 

なぜ失敗したのかというと、

スペイン国王、ローマ教皇

家康の禁教方針を知ったからです。

 

伊達政宗の派遣した使節団を

慶長遣欧使節と言います。

もしかすると、天正遣欧使節

ごっちゃになるかもしれません。

 

出展:13 慶長遣欧使節関係資料 | 政宗が育んだ“伊達”な文化 (datebunka.jp)

 

しかし、見分け方があります。

秀吉の朝鮮出兵の2番目は

慶長の役という名前でした。

 

この「慶長」というのは、元号です。

元号は、天皇崩御したり、

上皇になったりしたときにしか

変わりません。

 

つまり、2番目の朝鮮出兵のあたりから、

元号は変わっていないということです。

これで間違えませんね。

 

ちなみに、天正遣欧使節は、

戦国時代に3人の九州の

キリシタン大名が派遣したものです。

 

あと、注意するべきは、

田中勝介が行った場所はメキシコ、

支倉常長が行った場所はスペイン

ということです。

 

これは完全に余談ですが、

田中勝介は日本人で初めて

アメリカ大陸に行った人物

と言われています。

 

 

次にポルトガルです。

ポルトガルとは、

何のトラブルもありませんでした。

 

ひとまず安心ですね。

ポルトガルに関して押さえるべきなのは、

「糸割符制度」だけです。

 

出展:糸割符制度ってなんのこと? - 日本史用語集 (japanserve.com)

 

ただ、この「糸割符制度」は、

名前だけ覚えて内容を理解

しなくなる可能性があるので、

注意してください。

 

まず、ポルトガルは、

中国産生糸の日本への輸出を

独占していました。

 

当時、明は解禁政策を取り、

秀吉の朝鮮侵攻が原因で日本とは

国交断絶状態でした。

 

そのため、

中国産生糸はポルトガルから

購入していました。

 

ということは、つまり、

ポルトガル以外に生糸を売る

国はないということですね。

となると、何が起こるでしょう?

 

答えは簡単です。

ポルトガルが生糸を高い値段で売ってくる

ということが起こります。

 

出展:一般景品利益アップセミナー | 船井総合研究所(船井総研) パチンコ公式サイト セミナー情報 (funai777.jp)

 

他にライバルがいない。

そうなると、買ってくれるところまで

値段を上げようとします。

当然ですね。

 

これで、ポルトガルは大儲けし、

ウハウハ状態でした。

しかし、日本はそのまま大人しく

買い続けるようなことはしません。

 

ここで、対抗策として、

「糸割符制度」というのを設けます。

これは、日本の限られた商人が

生糸を一括購入する制度です。

 

始めは京都、堺、長崎の3か所の

特定の商人に糸割符仲間を作らせ、

のちに、江戸と大坂を加え、

5か所に増えました。

 

では、数か所の商人が一括購入すると、

どのようないいことがあるのでしょう?

これも簡単です。

 

もし、たくさんの商人が生糸を買うと、

高い値段でも買う商人が出てきてしまいます。

そうすると、価格交渉しても、

ポルトガルは価格を下げてくれなくなります。

 

なぜなら、高い値段で買ってくれる

商人がいるので、その商人にだけ

生糸を売ればよいからです。

 

こうなると、生糸を安く買いたいと

考える商人は生糸を買えなくなり、

最終的に、ポルトガルの付けた値段に

従わざるを得なくなります。

 

しかし、限定された商人だけが購入すると、

どうでしょう?

「私たちはこの値段でしか買いません!」

と強気で言うことができます。

 

彼等は日本を代表する商人なので、

ポルトガルは彼等との貿易を失うと、

日本というマーケットを失うことになります。

 

出展:日本地図全土イラスト(立体)-押し出し(黒) | イラスト, 日本地図, 地図 (pinterest.com)

 

これはデカいです。

糸割符制度は、限定された商人が毎年春に話し合って、

1年間の生糸の価格を決め、その価格で生糸を購入し、

それを仲間構成員に分配していました。

 

賢いやり方ですね。

ちなみに、後の5か所の商人を

「五か所商人」と呼びます。

 

 

最後は、新規参入してきた

紅毛人の2カ国についてです。

イギリスとオランダですね。

 

これは一緒に見ていきます。

日本がイギリスやオランダと

絡んだきっかけは、

リーフデ号の日本到着です。

 

出展:リーフデ号のエラスムス像: ジャカルタ新旧あれこれ (cocolog-nifty.com)

 

1600年、リーフデ号というオランダの船が、

日本の豊後(大分県)に到着しました。

1600年というのは、関ケ原の戦い

起こった年です。

 

なので、ちょうど、

これから徳川家康が力を持つようになる

時期ですね。

 

徳川家康は、

イギリス人のウイリアム=アダムズと、

オランダ人のヤン=ヨーステンを

外交顧問にします。

 

その後、オランダは1609年に、

イギリスは1613年に幕府の許可を受け、

長崎県の平戸に商館を開きました。

 

出展:【長崎】平戸でアジングをするなら・・オススメ釣りポイント2選 | ガルゾウブログ (garuzou.com)

 

しかし、利益が見込めなくなったイギリスは、

わずか10年後の1623年に商館をたたみ、

貿易から撤退します。

10年って、むちゃくちゃ短いですね(笑)

 

一方のオランダは、南蛮人の国とは違い、

鎖国体制になっても、貿易が認められます。

イギリスが去ってしまったので、

ヨーロッパの国の中では唯一です。

 

オランダは後に、出島で貿易することになり、

幕府に『オランダ風説書』を提出する義務が

課せられます。

 

これは欧州事情を報告するものなので、

幕府の重要な情報源です。

これはつまり、オランダは貿易だけでなく、

外の情報を伝えてくれる重要な存在になるのです。

 

出展:ナガジン!|特集:発見!長崎の歩き方 「出島の生活~カピタンの12ヵ月」 (nagasaki.lg.jp)

 

以上が江戸時代初期のヨーロッパとの交易に

ついてです。

まとめると、

 

①スペイン・ポルトガルは貿易と布教がセット、

イギリス・オランダは貿易と布教が別

 

②スペインとは国交が断絶していたが、

幕府が国交だけ回復させ、政宗

貿易再開させようとするが失敗

 

ポルトガルの高額での生糸販売に

対抗し、特定の商人が生糸を一括購入する

「糸割符制度」を設ける。

 

④イギリスオランダは新規参入。

平戸に商館を持ち、貿易するが、

イギリスはわずか10年で消え、

鎖国令でオランダだけが残る。

 

ということです。

これがざっくりとした今回の

内容です。

 

ここは内容が少なく、

簡単なので、この記事を読む

だけでも、十分頭に入るでしょう。

 

ですが、江戸時代で重要なのは、

やはり「鎖国」です。

他にも、アジアとの交易も

見逃してはいけません。

 

江戸時代の外交は、

交易する国が増えるので、

見逃す点が多くなります。

 

なので、この記事を読むだけで

終わらせてはいけません。

そのため、江戸時代の交易の勉強には、

3つのステップがあります。

 

①この記事を読み直し、

今回の内容の確認をする。

 

②教科書などを読み、

鎖国の流れやアジアとの交易について

勉強する

 

③そのうえで、

江戸時代の交易の受験問題を

説いてみる

 

以上の3つです。

江戸時代は鎖国しているので、

この後出てくる、漂流したロシアの船や

幕末の交易などを除くと、

外国との関わりはここだけです。

 

なので、江戸時代の交易については、

ここを押さえればある程度確実です。

ですが、この3つのステップを

一気にやるのはしんどいですよね?

 

なので、まずは、

「この記事を読み直し、

今回の内容を確認する」

ということをやってみてください!

 

最期まで読んでいただき、

ありがとうございました!

 

 

 

徳川家綱の幕政は○○でマスターできる!

 

出展:徳川家綱(徳川四代将軍) (tsukudo.jp)

 

こんにちは!マロです!

 

さっそくですが、

徳川家綱の幕政」

を説明できますか?

 

「将軍多すぎて覚えてない」

「まず、家綱が誰かわからない」

そんな風に思っていませんか?

 

もし、そう思っているなら、

かなり危険です!

なぜなら、江戸時代は

出題頻度が高いからです!

 

日本史は、どこも出る可能性があるので、

どこも大切なのですが、

江戸時代は特に重要です。

 

そう考えると、

今回の内容も当然重要になります。

出題される確率は決して低くありません。

 

なので、もし、この記事を読まず、

家綱の政治を勉強しなければ、

受検で点を落とし、

大学受験で不合格になります。

 

 

そんなの嫌ですよね?

一方で、この記事を読み、

家綱の政治をマスターすれば、

受検に合格できます!

 

 

今回の内容は大切ですね!

では、さっそく解説していきます!

 

出展:徳川家綱(徳川四代将軍) (tsukudo.jp)

 

まず、家綱が将軍になった時、

家綱はわずか11歳でした。

11歳ということは、

今でいうところの小学5年生くらいです。

 

さすがにこの年では、

政治は出来ません。

なので、誰かかわりに政治をする人が

必要です。

 

しかし、お父さんの徳川家光

死んでしまっていました。

というより、家光が死んだので、

家綱が将軍になったのです。

 

今までは、将軍の父親が

大御所として政治をしてきました。

しかし、家光は死んでしまっているので、

それは出来ません。

 

そこで、幕府は、保科正之松平信綱らが

家綱を支える体制をとります。

保科正之は聞いたことあるのでは

ないでしょうか?

 

出展:【徳川家光の異母弟:保科正之】名君と呼ばれた初代会津藩主の功績とは | 歴人マガジン (rekijin.com)

 

保科正之は家光の腹違いの弟です。

なので、家綱にとっては叔父にあたります。

この保科正之会津藩主でした。

会津というと、福島県あたりです。

 

要は、家綱にしてみれば、

会津に住むおじさんが江戸に来て、

自分を支えてくれたということですね。

 

松平信綱は老中です。

老中はざっくりいうと、

奉行などを統制する役職ですね。

それとともに、将軍のすぐ下にいる存在です。

 

あと、今回の内容とは関係ないのですが、

松平信綱は島原天草一揆という、

キリスト教徒たちの起こした一揆

鎮圧した人物です。

 

老中は、当然権力があり、

意見も通りやすいです。

家綱が幼い時は、

この2人が家綱を支えます。

 

ただ、徳川家綱が将軍の時代は、

非常に短いです。

1651年~1685年までなので、

わずか34年間のことです。

 

家綱は45歳の時、病死し、

その後はあの有名な、犬将軍の

徳川綱吉が将軍になります。

 

ちなみに、家綱が死ぬ間際の時期は、

大老酒井忠清が実権を握ります。

ちなみに、大老

老中より上の非常置の役職です。

 

このような政治体制をとっていたのですが、

重要なのは、この時代は平和だった

ということです。

 

出展:田染荘小崎の農村景観 | 全国文化的景観地区連絡協議会 (bunkeikyo.jp)

 

このような時代でも、

当然課題はあります。

家綱たちは、その課題を解決する

ことを目指し、政策を実施します。

 

というわけで、

具体的な政治の内容を

見ていきます。

 

まずこの頃、幕政体制は整えられていました。

ここは重要です!

江戸幕府のしくみは、徳川将軍の1代目から

3代目までの3人で整えられていたのです。

 

このような状態だと、当然安心ですね。

幕府に歯向かってくる者もいない、

外国も攻めてこない。

もう、平和な世の中です。

 

このような世の中でも

当然、社会課題は存在します。

それは、

牢人やかぶき者の存在です。

 

牢人は、聞いたことあるのでは

ないでしょうか?

牢人は、主人を失い、

落ちぶれた武士です。

 

出展:『 牢人大将 』 (artakuto.com)

 

牢人は今でいうところの

フリーターみたいなものですね。

もっというと、失業した

フリーターです。

 

そんな彼等は、戦乱を待ち望んでいました。

その理由は、

再就職したかったからです。

 

主人を失うということは、

御恩をもらえないということです。

今の世の中、仕事がないと

飯を食えないですよね。

 

同じ感覚です。

戦乱があると、他の主人が

牢人を家臣にすることがありました。

これは、現代でいうところの再就職ですね。

 

しかし、戦乱がないと、

家臣という役職の需要がないため、

誰かの家臣になることはできません。

そのため、牢人は戦乱を望んでいたのです。

 

かぶき者は、異様な姿をして歩く者

を指しました。

彼等は血の気が多く、

街で騒動を起こしていたのです。

 

出展:『傾奇者』 | 株式会社飯島企画 (ii-jima.co.jp)

 

まあ、かぶき者は、

今でいうところの、

ヤンキーみたいなものでしょう。

 

幕府は、江戸の町を脅かしていた

牢人やかぶき者の対策を進めて

いきます。

 

では、何がきっかけで牢人対策を

するようになり、

具体的にどのような対策をしたのでしょう?

 

このことを見ていくにあたり、

慶安の変末期養子の禁緩和」

という2つのことに触れる必要があります。

 

慶安の変」は牢人の反乱です。

一方、「末期養子の禁」は、

大名が死ぬ間際に養子をとることを

禁止したものです。

 

一見、関係なさそうに見えるこの2つが、

実は関係あります。

 

まず、慶安の変は、1651年(家綱将軍就任の年)に、

兵学者の由井正雪がリーダーとなり、

牢人たちが幕府に反乱を起こそうとした事件です。

ただ、幕府は未然に防ぎます。

 

出展:由井正雪の似顔絵 | キリヌケ成層圏 (kirinuke.com)

 

未然に防いだの?よかった!

そう思う人もいるかもしれません。

ですが、そんなのんきな話ではありません。

 

当時、牢人は増加していました。

そんな牢人たちが、幕府にクーデターを

起こそうとしたのです。

幕府は牢人の危険性を認知します。

 

そこで、幕府は、

「よし、牢人が増えないようにしよう!」

と考えます。

 

そこで、行った政策が、

末期養子の禁の緩和」なのです。

 

では、なぜ、「末期養子の禁緩和」が

牢人増加を防止するのに有効なのでしょう?

これを考える上で、まずは、

牢人が増加した背景を知る必要があります。

 

まず、武士が牢人になるのは、

主君を失った時です。

こういうと、大名が病気で死ぬことを

考えるかもしれません。

 

もちろん、それもあるのですが、

もっと大きな原因がありました。

それは、大名の土地が没収される

ということです。

 

大名が領地を没収されることを

「改易」というのですが、

これが牢人発生の一番大きな要因でした。

 

逆に言うと、

それだけ「改易」が多かった

ということですね。

 

これは偶然ではなく、

ちゃんと理由があります。

その理由が、「末期養子の禁」です。

 

末期養子の禁」は、

大名が死ぬ間際に養子をとることを禁止

したものですね。さっき述べました。

これは江戸時代初期に決定されます。

 

では、なぜこれが出されたのかというと、

改易を利用して、

大名をある程度つぶすためですね。

 

大名の領地没収は、大名が悪いこと

をしたときにも行われましたが、

大名の跡取りがいないときにも

行われました。

 

こっちの方が圧倒的に多いでしょう。

大名の跡取りがいないということは、

土地を継ぐ人がいないということです。

 

当時の大名の権力は、

土地と関わりが強く、世襲制でした。

領地内なのはもちろんのこと、

家臣に対する権力は、土地(のちに米)

を家臣に与えることで保障されていました。

 

しかし、土地が没収されてしまうと、

大名と家臣の関係が成り立たなくなります。

これは当然ですよね?

 

たとえば、会社がつぶれると、

給料が払えなくなり、

社員を維持できなくなります。

 

 

これと同じような感じです。

なので、改易になるということは、

会社が倒産するようなものですね。

 

そして、藩は個人商店みたいなものでした。

たとえば、豆腐屋があったとします。

しかし、子どもたちが継ぎたがりません。

他にも継ぐ人がいません。

 

そうなると、店をたたみますよね?

同じです。

ただ、藩の場合、「店をたたむ」

ということが幕府によって行われる

というだけです。

 

つまり、後継ぎがいないと、

領地は没収され、藩は存続できず、

家臣たちは牢人になってしまうということです。

 

当時は今よりも「死」が身近な世の中でした。

大名が病気や事故で急に亡くなることも

多かったのです。

 

こうなると、大名に子どもがいなかったりすると、

終わりですね。

「若いからまだ子ども作ってなかった―」

というようなことがあれば、終わりです。

 

じゃあ、早めに養子を取っておけばいいのでは?

そう思うかもしれません。

ですが、これも難しいです。

 

なぜなら、実子が生まれる可能性もあるからです。

養子をとって、その養子を後継ぎとして幕府に

登録し、その後、実の子が生まれた。

そうなると、大変です。

 

なので、大名が若い頃に養子をとるのは

難しいのです。

ですが、逆は簡単です。

 

人間、自分が死ぬということは自覚できるでしょう。

死ぬ前に子をつくる元気はないはずです。

そこで、養子をとるのは賢いですね。

 

ただ、死ぬ前に養子をとるのは、

というより、死ぬ前に養子をとり、

その養子を後継ぎとして届け出るのは、

難しいことでした。

 

当時は医療技術が今よりも未発達だったため、

大名が急に死ぬこともありました。

それとともに、死ぬ前の病人は

正常な判断をすることが難しいこともあります。

 

なので、末期養子は実質的に、

大名が死んだあとに、

大名の遺族が養子をとる

ということを意味していました。

 

こうなると、この養子が大名の

意志ではなかった可能性がありますね。

幕府はここに付け込み、

末期養子を禁止したのです。

 

ただ、本当の狙いは、

大名潰しでした。

江戸時代初期、将軍に匹敵するほどの

大名もまだたくさんいました。

 

出展:大名行列 - だいみょうぎょうれつ - - 文庫屋「大関」 (oozeki-shop.com)

 

そのため、幕府はある程度、

大名をつぶしておきたいと考えていたのです。

そして、「末期養子の禁」は見事、

そのような役割を果たします。

 

しかし、効果があり過ぎました。

たくさんの大名がつぶれ、

その結果、路頭に迷う牢人が

増加し過ぎていたのです。

 

そして、たくさんの牢人が

江戸の町に流れてき、

社会問題となります。

 

なので、

末期養子の禁」を

緩和したのですね。

 

後継ぎのいないことによる

改易から問題が発生しているので、

そこをかえればいいと考えたのでしょう。

 

ところで、「末期養子の禁緩和」

がどのようなものだったのかというと、

「藩主が50歳未満なら死ぬ間際に養子を

取ることを許可する」というものでした。

 

もう少し、正確に言うと、

17歳から50歳です。

ただ、なぜ、50歳未満なのかはあまり

わかっていません。

 

それでも、

50歳未満ということも

押さえておきましょう。

 

その後、江戸の町で、

牢人やかぶき者の対策を進めます。

以上が牢人についてです。

 

 

その後、明暦の大火という火災が起こり、

江戸で甚大な被害が出ます。

この時、江戸の町の約半分が焼け、

江戸城も焼けてしまいます。

 

出展:明暦の大火(振袖火事)は日本史上最大 3~10万人が亡くなり城も焼失 - BUSHOO!JAPAN(武将ジャパン) - 2ページ (bushoojapan.com)

 

しかし、幕府は江戸の町を

しっかりと復興させます。

けれど、復興が原因で、財政難に

なりました。

 

1963年には家綱が成人し、

代替わりの武家諸法度をだしました。

武家諸法度は武士を統制する決まりごと

のことですね。

 

武家諸法度は、ほとんどの将軍が

新しいものを出します。

7代、15代将軍を除き、

代々の将軍は武家諸法度を示しました。

 

このとき、「殉死の禁止」が口頭で

伝えられます。

「殉死」とは、主君の死を追って、

家臣も死ぬことです。

 

 

なんか、いきなりすぎますね。

「殉死」は、要は自殺です。

そんなものは、個人の問題で、

幕府を揺るがすものにはならない。

 

そう思いませんか?

当時は民主主義とかではないので、

世の中をよくする的な政策は少ないように

思います。

 

幕府が動く時は、大体、

幕府の脅威になるものがあるときか、

社会混乱を招いているものがあるとき

だと考えられます。

 

「殉死」なんて、家臣が勝手に死ぬだけで、

わざわざそれを禁止する必要はないのでは?

そう思うでしょう。

 

「殉死によって、優秀な人材が失われるのを

防ぐため」に殉死を禁止した

と言われています。

 

ただ、狙いは別にあるかもしれません。

というのも、これによって

下剋上の風習がなくなった」

という効果を上げているからです。

 

ちなみに、

下剋上は家臣の身分のやつが

大名に成り上がることですね。

 

では、

なぜ殉死の禁止によって下剋上

なくなるのでしょう?

 

これを考えるにあたり、

殉死の禁止による、主従関係の

構造の変化を押さえる必要があります。

 

具体的には、

「主従関係が個人のものから、

家単位のものへ変化した」ということです。

 

 

家臣が主君を追って自殺するということは、

家臣と主君の関係は個人的なものだった

ということになります。

 

といっても、ピンとこないですよね。

そこで、少し考えてみてください。

たとえば、あなたが家政婦だったとします。

それで、働く家の主人が雇い主とします。

 

この時、雇い主のみと契約した場合、

雇い主が死ぬと契約は終了します。

もちろん、家族のせわもするかもしれませんが、

契約自体は主人の死をもって終わります。

 

なぜなら、家政婦のあなたは雇い主という

個人に仕えているのであり、

家族の世話などは雇い主から

頼まれているに過ぎないからです。

 

すなわち、他の家族の世話は言ってみれば、

雇い主から頼まれたからやっているだけで、

雇い主の家族とは、

業務上関わっているにすぎないのです。

 

一方で、もし、契約相手が家族全員だった

場合、家族すべてが主人です。

なので、ご主人(お父さん)が死んでも、

家政婦のあなたはその家で働きつづけます。

 

今回の内容も、これと同じです。

結びつきが個人間のものなら、

家臣が主人を追って死ぬこともできます。

 

しかし、もし、結びつきが家同士なら、

主君が死んでも、家臣は後を追うことは

できません。

 

なぜなら、家臣は、主君の死後、

主君の後継ぎに仕えなければならない

からです。

 

加えて、家同士の結びつきなので、

主君の息子は主君になり、

家臣の息子は家臣になります。

 

 

そして、

この変化により、

下剋上が成り立たなくなります。

 

たとえば、家臣が死んだあと、

大名になろうと考えたとします。

この時、もし大名と家臣が個人的な

主従関係なら、これは可能です。

 

なぜなら、

大名が死んだあと、

次に仕える相手がいないからです。

 

一方、家単位ならば、違ってきます。

もし、家単位の主従関係の場合、

大名が死んでも、

家臣は大名の跡取りに仕えなければ

ならないからです。

 

こうすると、次第に下剋上という

概念がなくなりますね。

もし、下剋上があちこちでおこると、

戦乱の世になるかもしれません。

 

というより、平和な世の中を維持する

ためには、身分制度のような

「秩序」が必要だったのかもしれませんね。

 

さらに、翌年には、

すべての大名にいっせいに

領地宛行状を発給します。

 

「領地宛行状」とは、

知行の割り当てを保障する文書です。

これは言ってみれば、保証書だったり、

許可書みたいなものです。

 

出展:加藤清正領知宛行状 (waseda.ac.jp)

 

幕府がこれを出した理由は、

将軍の権威を確認するためです。

 

その後、幕府は幕領の検地を

いっせいに行い、

財政収入の安定を図りました。

 

ここまでは、対武士の話でしたが、

幕府は寺院や神社に対する政策も

実施します。

 

出展:【寺院法度と諸宗寺院法度の違い】わかりやすく解説!!それぞれの意味や目的など | 日本史事典.com|受験生のための日本史ポータルサイト (nihonsi-jiten.com)

 

まず、諸宗寺院法度というものを出します。

これは、法度なので、決まり事ですね。

つまり、これは、寺院や神社の決まり事です。

 

幕府は諸宗寺院法度を出し、

すべての宗派や僧侶に共通する

統制令を出します。

 

ところで、幕府が仏教に介入していく

理由は一つしかありませんね。

それは、キリスト教対策」です。

 

幕府は、島原天草の乱以降、

キリスト教根絶に徹底的に

取組むようになりました。

 

まず、すべての国民を

どこかの寺に強制的に所属させました。

これを寺請制度と言います。

 

寺請制度は

国民をどこかの寺に

登録させる制度です。

 

それによって

キリスト教徒も仏教徒

転宗させ、キリスト教禁止体制を

強化しました。

 

この際、宗門改帳というものが

発行されました。

これは、各人がどの宗派に属しているかを

記載しています。

 

ちなみに、

これは、後に戸籍の役割を

果たします。

 

出展:西南学院大学博物館 | SEINAN GAKUIN UNIVERSITY MUSEUM (seinan-gu.ac.jp)

 

寺には家ごとに所属していたので、

宗門改帳は

戸籍の役割を果たしたのです。

 

そして、この宗門改帳に基づき、

所属している寺院が、寺請証文という、

身分証明書を発行してくれます。

 

そして、諸宗寺院法度で、

寺請証文を発行できる寺を

確定させました。

 

もとは、寺院法度というものがあり、

それは各宗派ごとに統制していました。

しかし、諸宗寺院法度では、

全ての宗派の僧侶共通の形で統制します

 

具体的な統制としては、

寺にランクを付け、

縦の構造にする本末制度などです。

 

ここまでの制度を整えて、

キリスト教を防いだのは

凄いことです。

 

ただし、実は、

キリスト教以外にも

厄介なものがありました。

 

それは、

日蓮宗不受不施派」です。

これは、ひとことでいうと、

とがったヤバい宗派です。

 

出展:日蓮宗 | 茨城県水戸市にある日蓮宗のお寺・本行寺 (hongyouji.jp)

 

これは日蓮宗の一派なのですが、

法華経を信じない者から施しを受けず、

法華経を信じないものに施しをしない

というポリシーを掲げていました。

 

ただ、ヤバいのはそこではありません。

不受不施派は「幕政よりも宗教が優越している」

と主張していたのです。

 

幕府からすれば、

自分達の権力を否定するやつらは嫌いです。

なので、こいつらも取り締まります。

 

ということで、仏教を利用し、

キリスト教日蓮宗不受不施派

を取り締まるのですが、

仏教だけが認められていたわけではありません。

 

どういうことかというと、

神道も認められていたのです。

諸宗寺院法度を出したのと同年に、

幕府は「諸社禰宜神主制度」を出します。

 

出展:神道について語りましょう! | ガールズちゃんねる - Girls Channel -

 

以上が宗教に関してです。

最後に、百姓対策も見ておきましょう。

幕府は百姓に対し、

「分地制限令」というものを出します。

 

これは、

十石未満の百姓は分割相続禁止

というものです。

 

分割相続すると、

田畑は細分化します。

そうなると、農民一人一人の

収入は激減しますよね?

 

出展:【江戸時代の農民の生活】貧しい!?食事や服装・家・髪型などの暮らしについて! | 日本史事典.com|受験生のための日本史ポータルサイト (nihonsi-jiten.com)

 

幕府はそれを防いだのです。

百姓は年貢を納めてくれる大切な存在です。

なので、百姓が潰れないように

気を付ける必要がありました。

 

家綱の幕政は以上です。

内容としては、①対武士、②明暦の大火、

③対宗教、④対百姓でした。

 

この中で、特に①の政治は、

文治政治への転換」という見方ができます。

文治政治とは、儒教を重んじた政治」

という意味です。

 

家光の時までは、弾圧を軸とする

武断政治」が中心でしたが、

家綱の時からは徐々に

文治政治」へと転換していきます。

 

出展:【文治政治とは】簡単にわかりやすく解説!!きっかけや影響・その後など | 日本史事典.com|受験生のための日本史ポータルサイト (nihonsi-jiten.com)

 

この理由としては、

世の中が平和になり、幕府の権力も安定してきた

ということが大きいでしょう。

 

とりあえず、「武断政治」から「文治政治

への転換は、次の将軍の時にも出てくるので、

覚えておいてください。

 

というわけで、

家綱の幕政を解説しましたが、

今回の内容は、非常に複雑です。

 

特に、「末期養子の禁緩和」

はおそらく教科書にも

あまり詳しく載っていないでしょう。

 

なので、

ここから2つのステップを踏んで、

勉強する必要があります。

 

そのステップは、

 

①この記事を読み直し、

今回の内容を自分なりにまとめてみる。

 

②それを踏まえ、紙に記述するなどして、

今回の内容を自分で説明してみる。

 

という2つです。

 

ただ、

いきなり2つのステップを踏むのは

大変だと思います。

 

なので、まずは、

「この記事を読み直す」

ということをやってみてください。

 

最後まで読んでいただき、

ありがとうございました。

 

 

 

江戸時代の鎖国の動揺は○○でマスターできる!

こんにちは!マロです!

 

さっそくですが、

鎖国の動揺」

について説明できますか?

 

鎖国の動揺」とは、

ロシア船などが来て、

鎖国体制が脅かされた一連の

出来事を指します。

 

「ラスクマンしか覚えてない」

「異国船うち払ってたのは覚えてる」

そんな風に思っていませんか?

 

間違ってはいませんが、

もし、そのように思っているのであれば、

危険です。

 

なぜなら、

ここの選択問題や並べ替え問題が

出たとき、点を落とす可能性があるからです。

 

たとえば、

「1~4のうち、正しいものを選べ」や

「1~4の出来事を並べ替えよ」

といった問題が出る可能性があります。

 

そんな時、なんとなく内容を

押さえた気になり、

ちゃんと勉強していなければ、

確実に点を落とします。

 

ここで点を落とし、

受検で不合格になる。

そんなの、嫌ですよね?

 

 

一方、この記事を読み、

しっかりとした勉強を行えば、

受検で確実に合格できます。

 

 

というわけで、

さっそく解説していきます!

 

まず、

鎖国について簡単に

見ておきましょう。

 

鎖国とは、

オランダ、清、朝鮮、

琉球以外の国とは国交をもたない

ということです。

 

出展:EU、1ヶ月間の「鎖国」を決断 ニュース速報画像掲示板 明和水産 (meiwasuisan.com)

 

ヨーロッパに関しては、

もともと、スペイン、

ポルトガル、イギリス、

オランダと関わりがありました。

 

しかし、最終的には、

オランダ一か国になりました。

 

鎖国した理由は、

徹底的に、キリスト教

排除するためです。

 

このような鎖国は、

以外にも上手くいきます。

約200年の間、

外国が日本に絡んでくることは

ありませんでした。

 

しかし、そんな状況に

揺らぎが生じます。

それが、ロシア人の接近です。

 

出展:ロシアの国旗 - 壁紙・画像:エムズライファー (mslifer.com)

 

日本はロシアの存在を認知していました。

しかし、絡んだことはありませんでした。

というより、そもそも

蝦夷地のことすらよく知らない状態でした。

 

なので、田沼意次の時には、

ロシアとの交易の可能性を調査するため、

工藤平助という人物が

蝦夷地に派遣されたりしました。

 

まあ、田沼は経済の自由化や

交易の活性化をよいことだと

考えていたので、

少し違いますが。

 

とにかく、幕府としては、

ロシアの存在は認知していますが、

ロシアの実態どころか、

蝦夷地の北の樺太の実態すら知らない

状態でした。

 

そんな状況なので、

当然、ロシアのことを警戒します。

しかも、蝦夷地にはアイヌという民族

が住んでいるます。

 

もしかすると、

アイヌがロシアと交易しているかもしれない。

そんな心配もしていました。

 

そんな中、1792年に、

ロシア人が根室にやってきます。

そのやってきた人物が、

ラクスマンですね。

 

出展:ラクスマン | 世界の歴史まっぷ (sekainorekisi.com)

 

ラクスマンは「ラスクマン」では

ないので間違えないようにしましょう(笑)

くだらないことを書くと嫌われますが、

試験対策のため、申し上げます。

 

ラクスマンはなぜ来たのかというと、

伊勢の船頭だった大黒屋光太夫という

人物を届けるためです。

 

太夫は漂流民でした。

彼は嵐でアリューシャン列島に流れ着き、

そのままロシアに連れられ、

最終的にエカチェリーナ2世という

皇帝に謁見します。

 

凄い話ですね。

アリューシャン列島まで行ったというのも

凄いですし、エカチェリーナ2世を謁見する

のはとてもすごい話です。

 

ラクスマンはこの大黒屋光太夫

送り届けるのですが、

それで終わりではありませんでした。

 

出展:大黒屋光太夫の画像、名言、年表、子孫を徹底紹介 | 江戸ガイド (edo-g.com)

 

彼は日本との通商を要求します。

まあ、予測できることです。

しかし、日本はそれを拒否しました。

まあ、これも当然ですね。

 

ただ、この時、ただ単に拒否した

わけではありません。

ここ、間違わないでください。

 

老中の松平定信は、

長崎への入港許可書を

渡し、ロシアに帰ってもらいます。

 

要は、「長崎に来てもいいから、

今回はかえってください」

ということですね。

 

決して通商は許可していません。

ちなみに、当時、

長崎は唯一の交易港でした。

 

ただ、ラクスマンは納得しません。

「江戸港に行く許可をくれ」

と言います。

 

しかし、この要求も拒否します。

それでも、幕府は江戸港が危ないと考えるように

なりました。

そして、江戸港と蝦夷地の海防強化がなされます。

 

この頃、実は、ロシア人とアイヌ択捉島

交易を行っていました。

交易してたんかいっ!って感じですね(笑)

幕府の疑いは見事当たっていました。

 

そのため、ラスクマン来航から6年後、

幕府は近藤重蔵最上徳内らに

択捉島を探査させ、

その際に、「大日本恵登呂府」

という標柱を建てさせました。

 

出展:近藤重蔵: 仄聞百話 (cocolog-nifty.com)

 

これは、「択捉島は日本のものです」

という意味ですね。

幕府は択捉の外側に、ロシアとの

国境を引いたのです。

 

そして、蝦夷地に100人の入植者を

動員し、蝦夷地を永久の

直轄地、そこに住むアイヌ

和人としました。

 

ここで、注意してほしいのは、

蝦夷地と西蝦夷地の話です。

蝦夷地は北海道のおおよそ南側、

西蝦夷地は北海道のおおよそ北側です。

 

出展:蝦夷地を測る・津和野藩士 堀田仁助(10) 多発する海難事故 新航路開拓へ白羽の矢 | 山陰中央新報デジタル (sanin-chuo.co.jp)

 

幕府は東蝦夷地を直轄にしました。

なので、この時は、西蝦夷地は

直轄ではありません。

 

とりあえず、このような形で、

幕府は警備体制

強化します。

 

それでも、これで終わりではありません。

当然ですよね。

ロシアは長崎への入港許可書を持っています。

 

これは、幕府からすれば許可書ですが、

ロシアからすれば、

「来いよ」という振りのようなものです(笑)

 

当然、ロシアは長崎にやってきます。

ラクスマンが来てから12年が経った、

1804年のことです。

 

この時やってきたのは、

レザノフという人物です。

彼は再び通商を要求します。

 

出展:面白いほどわかるレザノフ来航!簡単に徹底解説【長崎に来た目的と幕府の対応がバッチリわかります】 | まなれきドットコム (manareki.com)

 

ロシア、諦めませんね(笑)

不屈の精神です。

それでも、幕府は翌年、

鎖国は祖法」として拒否します。

 

「祖法」はオランダ、中国、

朝鮮、琉球の4つの国以外とは、

通交しないというものです。

 

なかなかの強気です。

しかも、幕府は冷たくあしらいました

「あー、通商?無理っす。無理に

決まってるっしょ」的な感じでしょうね。

 

その結果、ロシア側はブちぎれます。

ロシアは、樺太択捉島を攻撃します。

これは、幕府にとって、未曽有のことです。

 

長い間平和が続いていた。

外国がせめてくることなんてなかった。

幕府はそう思いながら、衝撃を受けていました。

 

そして、幕府は警備をさらに強化します。

レザノフ来航から3年後の1807年、

幕府は西蝦夷地と松前藩を直轄化します。

 

ん?と思ったかもしれません。

どこが変化したのか?

簡単です。

 

ラクスマンの後は、

蝦夷地を直轄化しただけでした。

しかし、今回は、

西蝦夷地と松前藩を直轄化します。

 

松前藩というと、

松前氏が納める藩ですね。

北海道の南の部分にあります。

 

そこも直轄化したのです。

なので、レザノフ来航後は、

東西合わせた全ての蝦夷地と

松前藩が幕府の直轄地になりました。

 

それとともに、

幕府は蝦夷地と松前松前奉行に支配させ、

東北の諸藩に警備させます。

 

東北の諸藩をも巻き込んでいるくらいなので、

かなり警戒していますね。

 

幕府はここで終わらずに、

さらに、間宮林蔵という人物に

樺太とその対岸を調査させます。

 

間宮林蔵は、あの有名な、

間宮海峡を見つけた人ですね。

彼の発見した、樺太と大陸の間の海峡は

間宮海峡と名付けられます。

 

出展:間宮海峡(@LegendOfMamiya)さん / Twitter

 

彼は樺太を調査し、

樺太が島であるという

ことを明らかにしたのです。

 

樺太が島なのか大陸なのか、

ヨーロッパの中でも謎でした。

そのため、彼の功績は大きいですね!

 

ロシアとの関係はそののち、

「ゴローウニン事件」を機に

改善されます。

 

ゴローウニン事件とは、

国後島に上陸したロシア軍艦艦長の

ゴローウニンを日本が捕らえた事件です。

 

現代であれば、外交問題になりますね。

当時も同じでしょう。

ロシアは翌年、択捉航路を開拓した

淡路の商人の高田屋嘉平を捕えます。

 

出展:3月31日NHKBSプレミアム「英雄たちの選択。高田屋嘉兵衛」を見る。 新たに開業した北海道新幹線の北の玄関口・函館。この街の基礎を築いたのが豪商・高田屋嘉兵衛(1769〜 1 (hp-ez.com)

 

ちなみに、淡路(兵庫)の商人が

なぜ蝦夷地周辺にいたのかというと、

彼の経営する店の支店が

松前藩にあったからです。

 

このようにしてお互いに

相手の国の人を捕えたわけですが、

日本とロシアはこの2人を交換します。

 

こうして、

ゴローウニン事件は解決しました。

 

ロシアとの関係はこれで

落ち着きました。

しかし、これで終わりではありません。

 

完全な鎖国状態の中で、

それを脅かす国が他にもありました。

イギリスです。

 

1808年、イギリス船フェートン号が

長崎に侵入してきました。

この船は当時敵国になっていた

オランダの拿捕を狙って長崎に

来たのです。

 

この出来事は、

フェートン号事件

と呼ばれます。

 

出展:フェートン号事件 - HMS Phaeton (1782)#Nagasaki Harbour Incident - JapaneseClass.jp

 

当時、イギリスとフランスは

戦争状態で、オランダは

フランスの支配下にありました。

 

そのような状況で、

イギリスはオランダのアジア各地の

拠点を奪おうとしていたのです。

 

フェートン号は、

オランダ商館長を人質にし、

薪や水、食料を要求して退去しました。

 

この事件で、長崎奉行松平康英は責任を

感じて自殺し、佐賀藩主は処分されてしまいます。

なので、かなり大きな事件でした。

 

まあ、これに関しては、

日本は単に巻き込まれただけですね。

イギリスの狙いはオランダだったので(笑)

 

とはいえ、脅威があることに

かわりはありません。

このようなことは続きます。

 

1824年、イギリスの船が

大津浜に入り、薪水などを

要求して、水戸藩に逮捕

されるという事件が起こりました。

 

さらに、同年、

薩摩にある宝島という島で、

イギリス船が宝島に上陸し、

牛を奪う事件が発生します。

 

なぜ、ここまでイギリス船が来るのか

というと、イギリスはこの時、

捕鯨を盛んに行っていたからです。

なので、この2つの船は捕鯨船です。

 

出展:「捕鯨業」居然是美國五大GDP支柱產業之一,這些你知道嗎? - 每日頭條 (kknews.cc)

 

クジラの油は灯りの原料や

機械油に使われ、

需要が高まっていました。

そのため、捕鯨が盛んに行われたのです。

 

して、捕鯨の際の寄港地が日本でした。

太平洋などにはなかなか陸地がないため、

薪水を得るためには、日本に来るしか

なかったのです。

 

ですが、幕府はかなりのビビりでした。

とりま、薪や水を与える約束をし、

「そのかわりあまり近づかないでくれ」

そういえば、おしまいの話でしょう。

 

しかし、幕府は逆の対応をします。

それが、あの有名な

「異国船打ち払い令」です。

 

出展:https://twitter.com/hashtag/%E7%95%B0%E5%9B%BD%E8%88%B9%E6%89%93%E6%89%95%E4%BB%A4?src=hash

 

これは、1825年に出されました。

フェートン号事件の翌年です。

 

実は、もともと、薪や水を与えて

帰ってもらう対応を取っていたのですが、

方針転換しました。

 

異国船うち払い令は、

中国、朝鮮、琉球の船は対象外で、

オランダ船は長崎以外の場所では

うち払うことになっていました。

 

そして、

ある事件が起こります。

モリソン号事件です。

 

モリソン号は、日本人漂流民7人の送還と

通商交渉をするために

マカオから派遣されたアメリカの船です。

 

モリソン号は、

浦賀で砲撃を受け、

その後薩摩に停泊したところ、

また砲撃にあい、マカオに引き返しました。

 

このような形で、

異国船をうち払っていたのですが、

そんな中で、幕府は海外で起きた衝撃的な

出来事のことを知ります。

 

それが、アヘン戦争です。

アヘン戦争は、イギリスと清の

戦争です。

 

出展:「アヘン戦争戦闘図」 - 仰陽記 (fc2.com)

 

アヘン戦争は、清がアヘンの

輸入を拒否したことで起こった

戦争です。

 

イギリスは紅茶の国ですよね。

なので、その原料となる茶を

清から購入していました。

 

その際、銀を使って茶を購入していた

のですが、銀の流出が課題になりました。

そこで、インドを利用することを

考えます。

 

出展:アメリカと中国の関係①(アメリカ高校留学) (intraxjp.com)

 

まず、イギリスは、清に銀を払い、

清から茶を輸入します。

その後、インドに清から銀を輸入してもらい

イギリスは、その銀をインドから輸入します。

 

こうすると、銀は清からインドへ行き、

インドからイギリスへ戻ってくるのです。

賢いですね!

 

そして、清がインドに銀を輸出する代わりに、

インドが輸出したのがアヘンでした。

この結果、清国内でアヘンが蔓延することに

なります。

 

この後、いろいろあり、

イギリスと清は戦争を

することになります。

 

これがざっくりとしたアヘン戦争の流れです。

この説明だけでは、すっきりしない部分が

たくさんあると思いますが、

世界史の記事ではないので、割愛します。

 

この戦争の結果、清は惨敗します。

そして、南京条約を結び、

香港は割譲。

清は開国させられました。

 

このような事実を知った幕府は

またビビります。

その結果、また方針を転換させます。

 

それが、天保の薪水給与令」です。

これは、漂流した船には薪や水、

食料をあたえよというもので、

老中の水野忠邦が出しました。

 

出展:水野忠邦(江戸時代) | 日本の歴史を分かりやすく解説!! (xn--u9j228h2jmngbv0k.com)

 

それでも、鎖国は続けます。

途中、オランダ国王が、

開国すべきだと勧告しましたが、

それも拒否します。

 

そして、天保の薪水給与令を出してから

11年後の1853年、ペリーが浦賀

到着します。

 

以上が鎖国の動揺です。

今回の話は、①ロシア

②イギリス、アメリカの捕鯨船

アヘン戦争、④薪水給与令

 

のような感じでした。

まあ、言ってみれば、

起承転結のようなものでしょう。

 

起:ラクスマン到着~ゴローウニン

承:フェートン号事件~異国船打ち払い令

転:アヘン戦争

結:天保の薪水給与令

 

といった感じですね!

 

今回の内容は比較的、

頭にはいりやすいと思います。

 

最後まで読んでいただき、

ありがとうございました

 

 

 

 

桓武天皇の政治は○○でマスターできる

こんにちは!マロです!

 

さっそくですが、

桓武天皇の政治について

説明できますか?

 

聖武天皇桓武天皇

違いがわからない」

「名前だけ覚えてる」

そんな風に思っていませんか?

 

もし、そう思っているのであれば、

かなり危険です。

なぜなら、古代は内容が多いからです。

 

古代は民衆や外交の話は少ないですが、

政治の話は多いです。

なぜなら、古代は政治体制を

整えている時期だからです。

 

中世になると、武家政権が成立します。

その際、土地制度は整えられており、

領土拡大もありません。

 

しかも、室町時代には、

自治を行う村や都市が

出てきたりします。

 

江戸時代になると、

商人の活躍があったり、

藩が力を持ったり、

民衆が様々なアクションを

起こしたりします。

 

一方で、古代は、

土地管理の仕組みや税制が

まだまだ整えられていません。

 

そのため、朝廷は

施行錯誤します。

なので、内容が多いのです。

天皇もたくさん出てきます。

 

そんな状態であれば、

当然抜けが出てきます。

譲位なども多いため、

余計にです。

 

桓武天皇の政治に関しても、

どこか抜けがあるかもしれません。

内容は多くありませんが、

油断はできません。

 

丁寧に勉強しなければ

ならない箇所が

いくつかあります。

 

なので、もしこの記事を読まず、

桓武天皇の政治を勉強しなければ、

受検で不合格になります。

そんなの嫌ですよね?

 

 

一方で、もしこの記事を読み、

桓武天皇の政治を勉強すれば、

受検に合格することができます。

 

 

というわけで、

さっそく

解説していきます。

 

桓武天皇光仁天皇の息子です。

光仁天皇称徳天皇の次の天皇ですね。

称徳天皇聖武天皇の娘で、

もう一度天皇になりました。

 

そして、道鏡という、

世話をしてくれたおぼうさんに

皇位を譲ろうとしました。

 

称徳天皇は、

言ってみれば、奈良時代

ヤバめの天皇ですね。

 

称徳天皇はそのまま死に、

後継者が決まっていなかったの

ですが、藤原百川らの尽力により、

光仁天皇が即位します。

 

ただ、光仁天皇は、

天皇即位時点で高齢でした。

おじいちゃんだったということ

ですね。

 

なので、皇位をすぐに譲ります。

この時、皇位を譲り受けるのが、

桓武天皇なのです。

 

出展:桓武天皇の生涯を簡単にわかりやすく徹底解説!【年表付まとめ】 | まなれきドットコム (manareki.com)

 

とはいえ、実は、

もともと桓武天皇

皇位継承の候補ではありませんでした。

 

その理由は、彼の血筋にありました。

桓武天皇の母の高野新笠は、

渡来系氏族の血を

引いていました。

 

少し違うかもしれませんが、

今でいうところの、

在日コリアンのようなものでしょうか。

 

そして、残念なことに、

母親の血筋が原因で、

天皇の候補に入っていませんでした。

 

さらに、

桓武天皇は母親の血筋に

コンプレックスを抱きます。

 

個人的には、外国人の血筋を引く

ということにコンプレックスを

抱くのは残念だと思います。

 

今の日本には、韓国人の血を引く

韓国人や日本人がたくさんいますが、

それで差別とか、コンプレックスとかは

あまりないかもれません。

 

というより、あってほしくないですね。

しかし、ここでは、血筋が問題になりました。

それでも、桓武天皇天皇になります。

 

ただ、桓武天皇自身はコンプレックスを

抱いていたので、

自らの即位の正当性を主張しようと努力します。

 

その際、桓武天皇が行った政策が

大きく2つあります。

1つ目が、都の造営で、

2つ目が蝦夷との戦争です。

 

まず、都の造営ですが、

具体的には、長岡京への

遷都ですね。

 

出展:桓武天皇と平安京遷都|中学生のための、よくわかる歴史 (wakaru-rekisi.com)

 

長岡京は山背国です。

山背国は京都府南部あたりです。

山背国は大和国の背後にあることから、

山背国という名前になりました。

 

山背国は水運などの交通の便がよい

地域でした。

しかも、もともと首都だった平城京

奈良にあります。

 

なので、奈良の勢力を排除する

意味もありました。

さらに、天智系へ皇統が

戻ったことの象徴という意味もあります。

 

どういうことかというと、

実は、光仁天皇天智天皇の孫なのです。

大友皇子天武天皇壬申の乱で争いました。

 

天武天皇大海人皇子という名前でした。

2人は政権を掛けて争い、

大海人皇子が勝ちます。

それからは、ずっと天武天皇の血筋の

皇族が天皇でした。

 

出展:桓武天皇と平安京遷都|中学生のための、よくわかる歴史 (wakaru-rekisi.com)

 

これらのような理由から、

長岡京を造作し、

遷都しようとしたのですが、

事件が起こります。

 

藤原種継暗殺事件です。

種継は藤原宇合の子どもです。

宇合は藤原四氏のうちの式家の

人物ですね。

 

ちなみに、北家の房前、南家の武智麻呂、

京家の麻呂もよく試験に出るので、

押さえておきましょう。

 

話をもとに戻します。

藤原種継長岡京造営の主導者でした。

桓武天皇は種継のことを

とても信頼していました。

 

種継は桓武天皇にとって、

右腕のような存在だったのです。

そんな大切な部下が暗殺されました。

桓武天皇は黙っちゃいません。

 

桓武天皇は、早良親王や、

大伴氏、佐伯氏らを退けます。

彼等は暗殺事件の首謀者とされ、

早良親王流罪になります。

 

出展:怨霊となって祟った・早良親王の魂は、世に災いを及ぼす鬼のような存在だったのか? | 歴史人 (rekishijin.com)

 

ちなみに、早良親王桓武天皇

弟です。

早良親王は自ら食を絶って死にました。

 

その後、桓武天皇の母親や奥さんが

相次いで死にます。

いくら何でも、母親と奥さんが

連続して死ぬのはおかしいですよね。

 

なので、これは早良親王

たたりではないかとされました。

あり得なくはない話ですね(笑)

 

このことを受け、

桓武天皇は、平安京へ遷都します。

これは和気清麻呂による建議です。

 

ちなみに、

長岡京がなかなか完成しないことも、

平安京遷都の理由です。

 

長岡京平安京は共に

山背国にあります。

この時、山背国の漢字を

山城国」に改めました。

 

出展:平城京クロニクル 対談 都遷り ――寧楽の京と、そのあと先千田稔×里中満智子  安藤寿和子・構成 Wedge ONLINE(ウェッジ・オンライン) (ismedia.jp)

 

長岡京平安京

めちゃくちゃ近いです(笑)

遷都というより、軽い引っ越しですね(笑)

 

平安京遷都は794年(鳴くよ)なのですが、

ここから鎌倉に幕府が開かれるまでの

約400年間を平安時代といいます。

 

 

ここまでが都の造営についてです。

次は、蝦夷との戦いについて見ていきます。

 

その前に、蝦夷とのこれまでの戦いについて

触れておきます。

まず、孝徳天皇の時には、渟足柵と磐舟柵が

設けられました。

 

この2つの柵は日本海側の

今の新潟県のあたりに設置されました。

今回の内容の範囲ではありませんが、

地図で場所を押さえましょう。

次に、斉明天皇の時には、

阿倍比羅夫という人物が

派遣されました。

 

その後、元明天皇の時には、

多賀城が築かれます。

そして、出羽国が設置されます。

 

出展:日本史|拡大する東と西の境界 (chitonitose.com)

 

孝徳天皇は、大化改新の時の天皇

斉明天皇はその次の天皇ですね。

 

ちなみに、孝徳天皇の時の2つの柵ですが、

フェンスのような柵ではなく、

建物があるものでした。

 

出展:渟足柵ってなに? 新潟市東区 (niigata.lg.jp)

 

多賀城に関しては、鎮守府という

ものが置かれます。

鎮守府とは蝦夷討伐のために

置かれた軍政機関です。

 

要は、軍の拠点のようなものですね。

この鎮守府は先述した通り、

多賀城に置かれていたのですが、

その多賀城が焼かれてしまいます。

 

焼いた犯人は伊治呰麻呂という人物です。

彼は、蝦夷の豪族です。

この事件は光仁天皇の時に

発生します。

 

ちなみに、伊治呰麻呂がなぜ多賀城

焼いたのかはわかりません。

彼は蝦夷出身だったので、

それが関係しているのかもしれませんね。

 

とにかく、多賀城が焼かれるということは、

大変なことです。

なぜなら、多賀城には鎮守府という、

軍事基地があるのですから。

 

これは、海外に派遣した兵士の

駐屯基地がつぶされたイメージですね。

この後、東北では三十数年間戦争が

相次ぎます。                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                  

 

ここからが、今回の内容なのですが、

桓武天皇は、征夷大使を派遣し、

蝦夷を討幕しに行きます。

ですが、阿弖流為という蝦夷

首長が強くて勝てませんでした。

 

なので、ここで、坂上田村麻呂という

人物を征夷大将軍として派遣します。

坂上田村麻呂は新たに胆沢城を築き、

そこに鎮守府を移します。

 

そして、そのさらに北に、

志波城を築きます。

どんどん北に攻めていった

ということですね。

出展:【高校日本史B】「平安時代3(第2問)」(問題編2) | 映像授業のTry IT (トライイット) (try-it.jp)

 

ここで注意してほしいのは、

渟足柵、磐舟柵、は西側、

多賀城、胆沢城、志波城は

東側ということです。

 

要は、桓武天皇の時は、

東側で軍事行動を行います。

と言っても、言葉で伝えるのには

限界があるので、地図で押さえてください。

 

出展:日本史|拡大する東と西の境界 (chitonitose.com)

 

桓武天皇は、このような形で2つの

政策を行ったわけですが、

この2つの政策は財政や、

民衆の負担になります。

 

また、地方政治も

財政悪化の原因でした。

そのため、そこも改革する必要が

ありました。

 

そこで、桓武天皇は、

負担軽減策を講じます。

 

まず、健児の制を定めます。

これは、諸国の軍団を廃止し、

兵士は一般庶民ではなく、

郡司の子弟や志願した有力農民から、

採用するということです。

 

要は、一般民衆の兵役がなくなった

ということですね。

代わりに、郡司の子弟などが

兵士にさせられます。

 

と言っても、郡司の子弟や

志願した有力農民だけでは

圧倒的に数が少ないはずです。

 

なので、少人数精鋭ですね。

実は、一般的な兵士の質が

低下していました。

 

出展:サバゲーマーで女性との出会いを求める人に提案したいこと1つ | おたまちゃんねる (otamachannel.com)

 

そういうこともあり、

健児を採用したのですね。

ただし、これは東北と九州を

除きます。

 

次に、雑徭の60日を減らし、30日にします。

雑徭とは、

地方での労働ですね。

 

具体的には、国司のもとで、

約2カ月間、土木工事や国府の雑用などを

するというものです。

これが、約1か月に減ります。

 

さらに、勘解由使という役職を設置します。

これは、律令制度の中にはないので、

令外官と呼ばれる役職の一つです。

 

令外官とは、

律令制度の規定にない

役職という意味です。

 

そもそも、律令制度は

律=刑法

令=行政法 

という意味ですね。

 

なので、令外官

令=行政法

の外の官職ということです。

令外官の人事は天皇が直接任命します。

 

そんな令外官である勘解由使なのですが、

これは国司の税徴収や

国司交代時の不正を調べ、

取り締まる役人です。

 

実は国司交代時のトラブルが

多発していました。

国司は中央から派遣され、

任期は6年(のち4年)です。

 

そんな国司は地方で強力な

権力を持っていました。

なので、農民たちから

不当な搾取を行います。

 

そして、

不正や賄賂を繰り返していました。

国司は任期が終わると、

別の土地の国司になったりしていました。

 

ただ、国は自分が新天地へ行くのはよくても、

自分の築き上げた利権を新しい国司

渡すことは拒みます。

そこで、トラブルが起こっていたのです。

 

 

そのため、国司交代時のトラブル解決や

トラブルの元となる国司の不正を

取り締まるために勘解由使

設けられました。

 

この他、班田の実施を6年から12年に

一度にしたり、

公出挙の利息を5割から3割にしたりしました。

 

班田は、6歳以上の男女に田んぼを配ることですね。

ここには当然、租と呼ばれる税が付きます。

公出挙は、国が稲を強制的に貸し出し、

秋に収穫したコメを利息と共に回収するものです。

 

どちらも民衆の負担になっていました。

そのため、

どちらも緩和します。

 

しかし、どちらも十分な効果を

上げることはできませんでした。

そこで、桓武天皇は、

徳政相論という議論を実施します。

 

この時、藤原緒嗣は2大事業反対派で、

菅野真道は2大事業賛成派でした。

桓武天皇は、この2人の論争を聞き、

菅野緒嗣の意見を採用します。

 

出展:www.ainokobuncho.com

 

こうして、2大事業は廃止になりました。

この後、桓武天皇崩御し、

平城天皇が即位します。

 

 

以上が桓武天皇の政治です。

今回の内容は、

内容量自体は多くありませんが、

しっかりと押さえなければいけない

ところがいくつかあります。

 

たとえば、

蝦夷討伐の部分や

民衆の負担の部分です。

 

具体的には、蝦夷討伐は

地図でも押さえるということや、

雑徭の半減の具体的な期間などです。

 

そのため、この記事を読むだけでは、

ここを身に付けることはできません。

なので、ここからさらに勉強する必要が

あります。

 

勉強するステップは

3つあります。

 

①この記事を読み直す

 

②それをもとに、何も見ず、

今回の内容を自分で説明できるようにする

 

③入試問題の該当箇所を解いてみる

 

という3つです。

とはいえ、

いきなり3つやるのは大変ですよね?

 

なので、まずは、

「この記事を読み直す」

ということをやってみてください!

 

最後まで読んでいただき、

ありがとうございました。

 

 

 

 

 

韓国併合は○○でマスターできる!

こんにちは!マロです!

 

さっそくですが、

韓国併合

について説明できますか?

 

伊藤博文が暗殺された

ことしか覚えてない」

「統監府と総督府があった気がする」

そう思っていませんか?

 

もし、そう思っているのであれば、

かなり危険です。

なぜなら、ここの内容は、

抜けがちだからです。

 

ここの内容は、はっきり言って、

そんなに多くないです。

そのため、勉強するのを忘れる

可能性があります。

 

しかし、近代は内容が多いです。

そのうえ、よく出題されます。

そのため、特に近代史は

すみからすみまで押さえる必要があります。

 

なので、もし、この記事を読まず、

韓国併合について勉強しなければ、

受検で不合格になります。

そんなの嫌ですよね?

 

 

一方で、この記事を読み、

韓国併合について勉強すれば、

受検に合格できます!

 

 

というわけで、

さっそく解説していきます。

 

まず、朝鮮はもともと鎖国していました。

しかし、日本は江華島事件をきっかけに、

韓国をむりやり開国させます。

 

出展:検索結果 | 山川&二宮ICTライブラリ (ywl.jp)

 

この事件は、日本の軍艦「雲揚」

が朝鮮を挑発し、交戦した事件です。

日本が勝利し、朝鮮との間に不平等条約

結びました。

 

この時、日本は朝鮮の独立を確認し、

清が朝鮮の宗主国であることを否定します。

ここまでの流れでわかるように、

朝鮮はかなり弱い立場でした。

 

その後、朝鮮で内乱が起こるのですが、

そこは割愛します。

まあ、その内乱が原因で

日清戦争が起こるのですが、

日清戦争も関わりがあります。

 

日清戦争に勝利した日本は、

朝鮮が独立国であることを

清に認めさせます。

 

この時、日本は清から遼東半島

得ていたのですが、

ロシア、フランス、ドイツの3国から

遼東半島を清に返すよう迫られます。

 

出展:ロシア、ドイツ、フランス3国公使が外務省を訪れ、「露佛獨三國の遼東半島遷付勸吿」(いわゆる三国干渉)がなされる : ガウスの歴史を巡るブログ(その日にあった過去の出来事) (livedoor.blog)

 

この時、日本は素直に従うのですが、

日本国内では、反露感情が高まります。

そして、ロシアは次第に南下し、

それに対して桂内閣は戦争の準備をします。

 

この時、日韓議定書を交わし、

日露戦争を理由に、日本軍による

韓国領土使用を認めさせます。

 

要は、「戦争するから場所貸して」

ということですね。

日韓では、完全に日本の

立場が強いです。

 

ちなみに、余談ですが、

朝鮮は大韓帝国という

名前にかわりました。

 

なぜ変わったのかというと、

日清戦争が起こったからです。

 

日清戦争により、宗主国の清が破れます。

このとき、朝鮮はロシアの支援により、

日本に抵抗する動きが高まり、

朝鮮には親露政権が成立しました。

 

この政権は、日本に対抗する意味もあり、

国号を大韓帝国に改め、朝鮮国王は

皇帝を名乗るようになります。

これは、1897年のことです。

 

出展:大韓帝国 < 海外通貨 < 文鉄・お札とコインの資料館 (buntetsu.net)

 

なので、

日清戦争から2年後以降は

朝鮮は大韓帝国という名前になります。

 

とはいえ、実態は帝国というわけでは

ありませんでした。

1904年には、韓国と第一次日韓協約を結びます。

 

この協約により、日本政府が推薦する財政、

外交顧問を韓国政府に登用することと、

重要な外交案件は事前に日本政府と

協議することが決定されました。

 

これは、

言ってみれば、

過干渉な親みたいなものです。

 

「お金の使い道は自分で決めていいけど、

予算の中に親の決めた使い道を入れること」

「友達は自分で選んでいいけど、

その友達は親に紹介し、親の許可を得なさい」

 

こんな感じでしょうか。

韓国が自主的に人事決定や、

外交を行うことはできます。

 

しかし、財務と外交には日本政府が

推薦する顧問を置かなければならず、

外交案件も日本の干渉が入ります。

 

イメージとしては、

見えない裏側で日本が韓国を

少しコントロールしている感じですね。

 

ところで、少しネタバレになりますが、

政治監督⇒外交権⇒内政権⇒併合

という順番で進んでいきます。

外側からどんどん内に

入って行っているのです。

 

そのうえで、

この⇒の部分に、

それぞれ出来事が入ります。

 

では、話をもとに戻します。

このような状況で、

日露戦争が起こり、

日本が勝利します。

 

この結果、日本はロシアと

ポーツマス条約を結ぶのですが、

そのポーツマス条約の中に、

日本の韓国指導権の承認が含まれます。

 

他にも、同年、

日本がアメリカと非公式に結んだ

「桂・タフト協定」で、

日本の韓国での、アメリカのフィリピンでの

権益を相互に認め合います。

 

また、第二次日英同盟では、

イギリスが日本の韓国保護化を

認めます。

 

こうなると、もう無敵ですね。

清に勝利し、ロシアを破り、

アメリカやイギリスが韓国の保護化

を認めました。

 

もう完璧です。

ですが、日本は一歩ずつ

進んでいきます。

 

ここで、日本は第二次日韓協約を結びます。

これは、さらに踏み込み、

韓国の外交権を接収するものです。

 

日本政府は韓国の漢城に、

韓国の外交を統括する統監府

設置しました。

初代統監は伊藤博文です。

 

出展:jpop80.g3.xrea.com/asia_senzen_korea.html

 

具体的な仕組みとしては、

韓国の外交は日本の外務省が処理

するというものです。

 

前は、外交に関しては、

日本が推薦する顧問を置き、

具体的な案件は日本と話し合う

という形でした。

 

しかし、今回は、

日本が直接外交問題を処理する

ようにしました。

 

これは、さっきの親のたとえを使い、

外交を友達づき合いに例えると、

以前は友達づきあいは親に友達を紹介し、

遊びに行く日時は親と相談する形式でした。

 

しかし、今回は、

親が直接、付き合う友達も、

遊ぶ日時も決めてしまう状態です。

とんでもない話ですね。

 

このような状況になり、

韓国政府も黙っちゃいません。

韓国はある行動に出ます。

 

それは、ハーグに密使を送るというものです。

オランダのハーグでは、万国平和会議が

おこなわれていました。

 

出展:ハーグ密使事件 - Hague Secret Emissary Affair - JapaneseClass.jp

 

韓国皇帝の高宗はここに、

日本政府には秘密裡に使者を送り、

第二次日韓協約を抗議したのです。

 

しかし、

各国は無視しました。

悲しい話ですね。

 

そして、こんなことをすると、

日本はだまっちゃいません。

この事件を受け、日本政府は

高宗を退位させます。

 

出展:高宗 - 高宗 - JapaneseClass.jp

 

その後、

第三次日韓協約を結び、

内政権を接収します。

 

これはつまり、日本政府が

韓国の政治をするようになった

ということですね。

 

こうなると、韓国は、

完全に傀儡政府です。

操り人形ということですね。

 

この時、韓国軍は解散させられるのですが、

この解散させられた元韓国軍の

人々が義兵運動に加わります。

 

実は、

韓国では、

義兵運動が起こっていました。

 

しかし、その主体は民衆でした。

その後、ここに元韓国軍の軍人が

加わり、義兵運動は本格化します。

 

それでも、日本政府により、

すぐに鎮圧されてしまいます。

日本政府としては、

これで安心ですね。

 

反抗してくるものはいない。

そう思いますよね?

しかし、ここで、事件が起こります。

 

それが、伊藤博文暗殺事件です。

前総監の伊藤博文は、

南満州ハルビンを訪れていました。

 

 

そんな時、韓国人の安重根という

人物によって暗殺されます。

この事件が起こったこともあり、

日本は韓国を併合することを決めます。

 

出展:菅政権誕生で日韓は? 不毛な「安重根論争」再び? 拡大写真 - 市川速水|論座 - 朝日新聞社の言論サイト (asahi.com)

 

1910年、日本は韓国に

日韓併合条約を強要し、

韓国併合を行います。

 

この際、日本は大韓帝国を朝鮮に

改称し、朝鮮総督府を設置します。

なので、日韓協定は「韓国」、

朝鮮総督府は「朝鮮」なのです。

 

ちなみに、「統監府」と

総督府」の区別に注意してください。

まあ、総督府の場合、

朝鮮総督府」なので、大丈夫だと思います。

 

統監府の場合、

「韓国」や「朝鮮」という

言葉は付きません。

 

朝鮮総督府の初代総督は

寺内正毅です。

寺内正毅はのちに

首相になります。

 

出展:【孤高の国母】(74)首相人事で混乱 天皇は“究極の選択”を強いられた  - 産経ニュース (sankei.com)

 

寺内は陸軍大将でした。

そのため、寺内は武断政治

実施します。

 

ところで、第三次日韓協定締結後と

韓国併合条約締結後で

どのように変わったのでしょうか?

 

第三次日韓協約までは、

日本が韓国の政治を監督しているような

状態でした。

 

しかし、韓国併合

韓国は完全に日本の一部になります。

なので、朝鮮総督府

天皇の直属の機関でした。

 

出展:bing.com/newtabredir?url=http%3A%2F%2F33roswell.blog136.fc2.com%2Fblog-entry-4113.html

 

会社をイメージするとわかりやすい

かもしれません。

日韓協約はグループ会社に入り、

会社名や社長は残してもらえた状態です。

 

しかし、韓国併合は、

会社だと吸収合併され、

会社名や社長を残してもらえなかった

状態です。

 

この後、朝鮮総督府

土地調査を実施します。

その際、所有者の不明な土地は

没収します。

 

そして、土地の一部は

東洋拓殖会社という、

日本が建てた会社や日本人などに

払下げられました。

 

 

これは、徴税するためですね。

ちなみに、この土地調査事業で、

多くの朝鮮農民が土地を失いました。

 

土地を失った人の中には、

日本に移住する人もいました。

 

 

以上が韓国併合についてです。

ここまでを簡単にまとめると、

 

(江華島事件日清戦争)

 

①日韓議定書

 日露戦争

 

②第一次日韓協約

 ポーツマス条約

 (桂タフト協定、第二次日英同盟)

 

③第二次日韓協約

 ハーグ密使事件

 

④第三次日韓協約

 義兵運動 

 伊藤博文暗殺

 

韓国併合

 土地調査事業

 

以上のような形です。

 

今回の内容は正直言って

少ないです。

なので、比較的頭に

入りやすいと思います。

 

とはいえ、

この記事を読むだけでは

受検に合格できません。

 

そのため、

さらに勉強する

必要があります。

 

ここをマスターするための

勉強には、

3つのステップがあります。

 

①この記事を読み直す

 

②何も見ず、自分なりに

今回の内容を記述などで

説明してみる。

 

③入試問題を解いてみる

 

以上の3つです。

とはいえ、

いきなり3つやるのは

大変ですよね?

 

なので、まずは、

「この記事を読み直す」

ということをやってみてください!

 

最後まで読んでいただき、

ありがとうございました!

 

 

古墳の変化は○○でマスターできる!

出展:大仙陵古墳とは何? わかりやすく解説 Weblio辞書

 

こんにちは!マロです!

 

さっそくですが、

「古墳の変化」

について説明できますか?

 

古墳時代は、前期、中期、後期の

3つの期間があり、

それぞれ古墳の特徴が異なります。

 

前方後円墳しか覚えてない」

「馬具とはなかったっけ?」

「埴輪とかあった気がする」

そんな風に思っていませんか?

 

もし、そう思っているのであれば、

かなり危険です。

なぜなら、縄文時代弥生時代

についてもよく出題されるからです。

 

なんとなく、この時代の出題は

少ないようなイメージを持ちがち

だと思います。

 

しかし、

不意打ちを突くように、

大問で出題されたりします(笑)

 

ここに関しては、史料問題など

の形式で出題されることも多いです。

ですが、内容をしっかり押さえておけば、

点を落とすことはありません。

 

しかし、もし、

ここを勉強しなかった場合、

受検に落ちます。

そんなの嫌ですよね?

 

 

けれど、もしこの記事を読み、

ここを勉強すれば、

受検に合格することができます!

 


というわけで、

さっそく解説していきます!

 

 

古墳について見ていく前に

まずは、ざっくりと

飛鳥時代前の時代区分を

見ておきましょう。

 

日本は、もとは

氷河期でした。

この期間を更新世と呼びます。

 

これは、

地質学上の呼び名で、

考古学的には旧石器時代です。

 

その後、氷河期が終わり、

暖かくなりました。

この期間を、地質学では、

完新世と呼びます。

 

この完新世は、考古学では、

新石器時代と金石併用時代が

それにあたります。

 

 

旧石器時代は、打製石器という、

石などでただ打っただけの石器を

狩りなどで使用していた時代です。

 

しかし、新石器時代は、

石器を磨き、

使用していた時代です。

 

その後、新石器時代が終わり、

弥生時代になるのですが、

弥生時代は金属器が導入されました。

 

この弥生時代が、

金石併用時代に

該当します。

 

そして、弥生時代の後、

古墳が作られるようになるのですが、

この時期を古墳時代と呼ぶのです

 

出展:大仙陵古墳とは何? わかりやすく解説 Weblio辞書

 

今回は、

古墳時代における

古墳の変化を見ていきます。

 

弥生時代が紀元前4世紀から

(普通の)3世紀までで、

古墳時代は3世紀中ごろからです。

 

弥生時代には、水稲農耕が開始され、

そこから身分差が生じたり、

集落が誕生したりします。

 

そして、国ができ、

戦争が起こり、最終的に

大きな国ができます。

 

それとともに、

漢(のちに隋)との外交も

行います。

 

その後、3世紀の中ごろになると、

大規模な前方後円墳を中心とする、

古墳が西日本を中心に

出現します。

 

ここからが、

今回の内容です。

 

この古墳からわかること、

というか、推測できることは、

広域の連合政権が形成されていた

ということです。

 

この連合政権のことを

ヤマト政権と言います。

 

出展:日本史|東アジアのヤマト政権 (chitonitose.com)

 

では、なぜ古墳から

連合政権があったことが

予測されるのでしょう?

 

これはかなり単純です。

まず、前方後円墳

かなりデカいです。

 

一方で、普通は円墳や

方墳が一般的で、

これらは小さいです。

 

出展:西都原古墳群の補足 - 103系が好きです (hatenablog.com)

 

他にも、

副葬品や形なども

判断材料になっています。

 

こういったことから、

前方後円墳

偉い人の墓だと考えられています。

 

そのうえで、

そのような古墳が

西日本を中心に

多数存在しています。

 

このように、

同じようなものが

たくさんあるということは、

共同体が存在したということです。

 

そして、ここまでを合わせて考えると、

偉い人が複数いる広域の共同体

=連合政権

というわけです。

 

そして、このような古墳が

造られた期間は、

主に3つにわけられます。

 

これが、

古墳時代

前期、中期、後期です。

 

前期は3世紀中頃~4世紀後半

中期は4世紀後半~5世紀、

後期は6世紀~7世紀です。

 

そして、

この3つの期間は、

それぞれ特徴があります。

 

まず、前期は

大規模な古墳はいずれも

前方後円墳です。

 

ただ、

円墳や方墳が一般的でした。

 

次に、石室は

竪穴式石室です。

これは、上から穴を掘り、

遺体を安置する方式です。

 

出展:こどもQ&A(第6回)|世界遺産 百舌鳥・古市古墳群(もず・ふるいちこふんぐん) (check-xbiz.jp)

 

副葬品については、

剣や玉、鏡などです。

これは、宗教的なものでした。

 

なので、

被葬者は

司祭者的な性格とされています。

 

まあ、

これに関しては、

自然なことだと思います。

 

というのも、卑弥呼が死に、

新しい女王の壱与を立てた

時期あたりから古墳が出現しているので、

これは自然なことだと思います。

 

邪馬台国は呪術により、

国を治めました。

これは、司祭者的な性格

ですね。

 

なので、このような特徴が

続いてもおかしくないでしょう。

まあ、これは、個人的な考え

ですが(笑)

 

ところで、古墳には、

埴輪が置かれます。

前期、中期、後期、

どの時代でもです。

 

円筒埴輪が置かれます。

形象埴輪も出現しますが、

円筒埴輪が中心です。

 

出展:E0127249 円筒埴輪 - 東京国立博物館 画像検索 (tnm.jp)

 

出展:『先土器〜古墳時代ラップ』解説・問題ページ【ラップで覚える中学歴史】 (cokeio.work)

 

この円筒埴輪は、

お墓の周りに並べられるもので、

お墓の範囲を示します。

 

最後に、前期の代表的な古墳は、

奈良県にある箸墓古墳です。

これは、出現期の古墳の中では

最大の規模です。

 

箸墓古墳纏向遺跡にあり、

卑弥呼の墓ではないか

という説があります。

 

続いては、中期の古墳です。

古墳時代中期は、おおよそ

4世紀後半から5世紀です。

 

この期間は、戦争が特徴的ですね。

具体的には、倭と高句麗の戦争です。

倭は百済との同盟関係により、

高句麗と戦いました。

 

しかし、倭は高句麗に敗れてしまいます。

ちなみに、高句麗新羅救援のため、

倭と戦います。

 

高句麗好太王碑には、

391年、倭は百済新羅を占領し、

それを受けた高句麗が、

新羅救援のため、倭と戦ったようです。

 

出展:『先土器〜古墳時代ラップ』解説・問題ページ【ラップで覚える中学歴史】 (cokeio.work)

 

高句麗との合戦により、

倭に乗馬の風習が伝わります。

これにより、中期の古墳には、

馬具が置かれます。

 

また、朝鮮半島南部における

外交、軍事上の立場を優位にするため、

倭の五王は相次いで宋に使いを送ります。

 

このような時代背景を押さえたうえで、

古墳の特徴を見ていきましょう。

 

とりあえず、

順番に見ていきます。

ますは、古墳の形からです。

 

古墳時代中期の古墳は、

近畿中央部で最大規模の

前方後円墳が作られました。

 

前方後円墳は地方でも作られ、

これもかなり大規模なものでした。

具体的な場所としては、

群馬、岡山、宮崎などです。

 

このことから、

同盟、連合の拡大を意味すると

考えられています。

 

次に、中期も竪穴式石室です。

ここに関しては、

これ以上言うことがありません。

 

副葬品に関しては、

武具や馬具など戦闘用具です。

このことから、

被葬者は武人的な性格だと考えられます。

 

出展:東京国立博物館・平成館(古墳時代)[上野・国立博物館&美術館めぐり編] (joyphoto.com)

 

これは、先ほど話した内容とリンクしますね。

倭は高句麗と戦いました。

その際、乗馬の風習が入ってきます。

 

このこととリンクさせると、

納得いくと思います。

被葬者が武人的な性格なのは、

高句麗との戦争の影響でしょう。

 

埴輪に関しては、形象埴輪です。

形象埴輪は、何かの形をしている

埴輪ですね。

 

たとえば、

人型や馬型、家型などです。

これは、被葬者の葬送儀礼

示しているのではないかと考えられています。

 

最後に、代表的な古墳を見ておきます。

中期の古墳の代表例として、

外せないのが、大仙陵古墳

誉田御廟山古墳です。

 

出展:大仙陵古墳とは何? わかりやすく解説 Weblio辞書

 

この2つはどちらも大阪にあります。

大仙陵古墳堺市にあり、

周辺の古墳とともに世界遺産

なっています。

 

百舌鳥古墳群という

名前なのですが、

聞いたことあるのでは

ないでしょうか?

 

とにかく、

この2つの古墳は

バカでかいです。

 

このほか、熊本県

江田船山古墳と、

埼玉県の稲荷山古墳

押さえておいた方がいいです。

 

なぜなら、この2つの古墳からは、

「わかのたける大王」の名が刻まれた

刀が出土しているからです。

 

この2つの刀から、

やまとたける大王という人物が

九州から関東までの範囲で

知られていたということがわかります。

 

出展:日本史|東アジアのヤマト政権 (chitonitose.com)

 

ここまでが中期の内容です。

最後は後期の内容を

見ていきます。

 

古墳時代後期は6世紀~7世紀です。

この頃は、氏名制度が整えられ、

大王が地方豪族を含み込んだ政治体制を

確立させた時期です。

 

それでも、

大王の権力は必ずしも盤石ではなく、

大王の勢力拡大に反発する

豪族もいました。

 

また、豪族間の対立もありました。

この時期は、大王の下に

大連と大臣という役職があり、

そこに豪族が就任していました。

 

大連は大王家と並ぶ有力豪族、

大臣は特定の職種で朝廷に

仕える有力豪族です。

 

この時の政治体制は世襲制です。

代表的なのは、蘇我氏物部氏

ですね。

 

この時期は、氏名制度や

世襲制の政治体制が確立された時期

ということです。

 

では、

そんな時代の古墳はどのような

ものだったのでしょうか?

 

まず、巨大な前方後円墳は近畿のみに

なります。

その他の地域の前方後円墳

規模が小さくなります。

 

これは、

連合政権から近畿の大王中心の

中央集権的な政権へと変化していった

ことの現れだと考えられます。

 

この時、石室は竪穴式から横穴式に

変化します。

横穴式石室には、追葬ができるという

メリットがあります。

 

出展:泉崎横穴 | 泉崎村公式ホームページ (vill.izumizaki.fukushima.jp)

 

これは、

すなわち、

家族葬ということです。

 

副葬品に関しては、

武具、馬具に加え、

土師器須恵器も置かれます。

 

土師器は、弥生時代の系譜を引く

日本独自の土器です。

一方、須恵器は朝鮮から伝わった

技術で制作された土器です。

 

土師器は赤い色をしています。

一方、須恵器は灰色です。

形も違うので、

写真を見て押さえましょう!

 

 

↑土師器

↑須恵器

出展:C0067505 土師器_壺 - 東京国立博物館 画像検索 (tnm.jp)

 

古墳時代後期の古墳には、

日常生活の用具が

置かれるようになった

ということですね。

 

埴輪に関しては、

形象埴輪を盛んに使用していますが、

形象埴輪は近畿では次第に減少します。

 

このような古墳時代後期の古墳

なのですが、今までにないような

古墳が登場します。

 

群集墳です。

これは爆発的に増加します。

では、群集墳とは何なのでしょうか?

 

群集墳は、有力農民が被葬者の古墳です。

なぜ、このように言えるのかというと、

この古墳から、副葬品として、

農具が見つかったからです。

 

出展:群集墳 - JapaneseClass.jp

 

これは、有力農民層までが、古墳をつくる

ようなったということですね。

 

このほか、装飾古墳というものも現れます。

これは石室の壁などに絵が描かれた古墳です。

奈良県高松塚古墳が有名です。

 

さらに、7世紀になると、

近畿の大王の墓は

八角になります。

これは、大王にのみ固有のものです。

 

出展:よみがえった牽午子塚古墳 築造時の石張り八角墳復元 奈良・明日香 [写真特集1/9] | 毎日新聞 (mainichi.jp)

 

これは、墳墓のうえでも、

大王は一般の豪族層を超越したものだと

示そうとしたものだと考えられます。

 

その後、7世紀の終わりごろになると、

大王一族と一部の有力支配者だけが

古墳を営むようになります。

 

以上が、古墳の変化についてです。

古墳は、その時代の政治の

あり方を示すということですね。

 

面白い話です。

しかも、学者さんたちの

考察能力は素晴らしいですね。

 

 

今回のことをまとめると、

 

[政治]

連合政権→大王と豪族

 

[出来事]

ヤマト政権の成立〈前期〉

高句麗との戦い

(今回は触れなかったが渡来人)〈中期〉

→大王と豪族の政権利〈後期〉

 

[古墳]

〈前期〉3世紀中頃~4世紀後半

前方後円墳、円墳、方墳

副葬品:剣、玉、鏡

 

石室:竪穴式

埴輪:円筒埴輪

代表例:箸墓古墳(奈良)    

 

〈中期〉4世紀後半~5世紀

前方後円墳

副葬品:武具、馬具

 

石室:竪穴式

埴輪:形象埴輪

代表例:大仙陵(大阪)、誉田御廟山(大阪)

江田船山(熊本)、稲荷山(埼玉)

 

〈後期〉6世紀~7世紀

前方後円墳、群集墳、装飾古墳

副葬品:武具、馬具、土師器、須恵器、

(群集墳は)農具

 

石室:横穴式

埴輪:形象埴輪

代表例:高松塚古墳(装飾古墳)

 

また、変化した部分だけまとめると、

 

[副葬品]

呪術→武具→武具+食器

 

[石室]

竪穴→竪穴→横穴

 

[埴輪]

円筒→形象→形象

 

と言った感じです。

以上です。

 

今回の内容は、

情報が多いです。

なので、上手く整理しなければ、

身につきません。

 

一応、最後にまとめは入れていますが、

全てを網羅しているわけではありません。

なので、ここからさらに勉強し、

うまく頭に入れる必要があります。

 

そのためのステップが

3つあります。

そのステップは以下の通りです。

 

①この記事を読み直し、

内容を自分なりにまとめる

 

②何も見ずに、記述などで、

今回の内容を説明してみる

 

③入試問題を解いてみる。

 

とはいえ、

いきなり3つやるのは、

大変ですよね。

 

なので、まずは、

「この記事を読み直す」

ということをやってみてください!

 

最後までよんでいただき、

ありがとうございました。

 

 

 

古墳時代の国際関係は○○でマスターできる!


こんにちは!マロです!

 

さっそくですが、

古墳時代の国際関係」

について説明できますか?

 

高句麗百済しかわからない」

「渡来人というワードだけ覚えてる」

そんな風に思っていませんか?

 

もし、そう思っているのであれば、

かなり危険です。

なぜなら、古墳時代についても

受検で出ることが多くあるからです。

 

多くの人は、奈良時代平安時代

鎌倉時代室町時代、江戸時代、

明治時代あたりをひたすら

勉強していると思います。

 

そんな中、飛鳥時代より前の時代の勉強を

忘れてしまうのです。

なんせ、飛鳥時代より前については、

一番最初に習うのですから。

 

みんな、日本史の膨大な情報量に圧倒され、

目の前の内容や苦手な個所ばかりに

気を取られるようになります。

 

その結果、

昔過ぎてはっきりした情報の少ない

縄文、弥生、古墳時代の内容を

復習しなくなるのです。

 

もしかすると、

あなたもそうではありませんか?

 

そんなあなたは、

このままでは、

受検に落ちてしまいます。

そんなの嫌ですよね。

 

 

でも、もし、この記事を読み、

ここの内容を勉強すれば、

受検に合格することができます!

 

 

というわけで、

さっそく解説していきます!

 

古墳について見ていく前に

まずは、ざっくりと

飛鳥時代前の時代区分を

見ておきましょう。

 

日本は、もとは

氷河期でした。

この期間を更新世と呼びます。

 

これは、

地質学上の呼び名で、

考古学的には旧石器時代です。

 

その後、氷河期が終わり、

暖かくなりました。

この期間を、地質学では、

完新世と呼びます。

 

この完新世は、考古学では、

新石器時代と金石併用時代が

それにあたります。

 

 

旧石器時代は、打製石器という、

石などでただ打っただけの石器を

狩りなどで使用していた時代です。

 

しかし、新石器時代は、

石器を磨き、

使用していた時代です。

 

その後、新石器時代が終わり、

弥生時代になるのですが、

弥生時代は金属器が導入されました。

 

この弥生時代が、

金石併用時代に

該当します。

 

そして、弥生時代の後、

古墳が作られるようになるのですが、

この時期を古墳時代と呼ぶのです

 

弥生時代が紀元前4世紀から

(普通の)3世紀までで、

古墳時代は3世紀中ごろからです。

 

弥生時代には、水稲農耕が開始され、

そこから身分差が生じたり、

集落が誕生したりします。

 

そして、国ができ、

戦争が起こり、最終的に

大きな国ができます。

 

それとともに、

漢(のちに隋)との外交も

行います。

 

その後、3世紀の中ごろになると、

大規模な前方後円墳を中心とする、

古墳が西日本を中心に

出現します。

 

出展:箸墓古墳に関するトピックス:朝日新聞デジタル (asahi.com)

 

ここからが、

今回の内容です。

 

今回は、

古墳時代における

外交の変化を見ていきます。

 

古墳時代は、

古墳が造られた時期です。

古墳はお墓のことですね。

 

古墳が造られたのは、

ある一定の期間だけです。

そのうえで、古墳からは、

様々な情報を知ることができます。

 

研究者たちは、古墳から情報を

得る方法と、文献から情報を得る

方法の2種類で、古墳時代

具体的な様子を明らかにしました。

 

ちなみに、余談ですが、

前者の方法は考古学で、

後者の方法は文献史学です。

 

このような形で、

古墳が造られた時代を

古墳時代」と名付けたのですが、

古墳時代は、主に3つにわけられます。

 

前期、中期、後期

3つですね。

 

前期は3世紀中頃~4世紀後半

中期は4世紀後半~5世紀、

後期は6世紀~7世紀です。

 

そのうえで、

海外と関係を持つのは、

おおよそ4世紀からです。

 

もちろん、その前の、

邪馬台国の時代にも

海外との交流はありました。

 

しかし、

古墳時代になってからは

4世紀が初めてでした。

 

では、どこの国と

交流していたのでしょう?

簡単ですね!

 

朝鮮半島の国々と

中国王朝の国です

昔は、その範囲の国としか

交流していませんでした。

 

まず交流するのは、朝鮮半島の国々です。

朝鮮半島には、3世紀ごろ、

馬韓辰韓弁韓という3つの

国がありました。

 

出展:馬韓 - Mahan confederacy - JapaneseClass.jp

 

ただ、ここは、

国というより、

小国が連合した状態でした。

 

その後、朝鮮半島北部には、

高句麗という国ができます。

一方で、馬韓からは

百済という国がおこります。

 

さらに、

辰韓からは

新羅という国がおこります。

 

これらの国は、

小国連合ではありません。

 

弁韓に関しては、

国はおこらず、

小国が連合した状態が続きます。

 

ここを伽耶諸国といいます。

伽耶諸国だけは、小国が連合した

状態です。

ここ、間違わないでください。

 

出展:日本の旧石器時代・縄文時代・弥生時代・古墳時代 – きそがく (waq2trainer.com)

 

伽耶諸国は日本に鉄を供給していました。

この鉄の話は見逃しがちだと思うので、

しっかりと押さえておいてくださいね。

 

高句麗は南下政策を行っていました。

どんどん領土を広げようと

していたということですね。

 

新羅高句麗に従属していました。

要は、新羅高句麗の味方だったという

ことですね。

一方で、百済は倭と同盟関係にありました。

 

百済との関係は、

大化改新以降まで

続きます。

 

中大兄皇子

百済を救済しようとした

ということは中学校の歴史などで

習ったと思います。

 

中大兄皇子が」というと

語弊があるのですが、

とりあえず、天智天皇

時代あたりまで百済との関係は

続きます。

 

こう考えると、簡単ですね。

「倭&百済」VS「新羅高句麗

の構図が描かれます。

 

といっても、戦争してなくない?

そう思ったのではないでしょうか。

そんなことはありません。

 

高句麗好太王碑文によると、

倭は高句麗と交戦しています。

高句麗好太王碑文とは、

簡単にいうと、デカい石です(笑)

 

出展:楽しく覚える歴史年代 - 391 高句麗好太王の碑文 (fc2.com)

 

高句麗好太王碑文は、

414年に、長寿王が父親である

好太王の功績を載せたものです。

これは高句麗の都である丸都にあります。

 

この碑文によると、

391年、倭は百済新羅を占領し、

高句麗新羅を救済するために、

倭と戦ったということです。

 

戦争の結果、高句麗が勝ちます。

まあ、そうでしょうね。

もし、高句麗が勝たなければ、

こんな記録は残しません(笑)

 

ただ、

別の推測も出ています。

 

石上神宮という場所で、

七支刀という刀が見つかって

いるのですが、この刀から

百済と倭の同盟関係が推測されています。

 

まあ、このあたりの時代については、

はっきりしたことが分かっていないので、

正直、扱いにくいです。

 

あと、ここの内容で大切なのが、

「乗馬の風習が伝わった」

ということですね。

 

出展:天理参考館 - 第159回展「古代東アジア馬ものがたり」 (sankokan.jp)

 

高句麗との交戦により、

日本に乗馬の風習が伝わります。

その結果、古墳時代中期の

古墳の副葬品に馬具が含まれます。

 

以上が朝鮮についてですね。

次は、中国王朝に

ついてです。

 

中国大陸には、

3世紀ごろ、魏、蜀、呉という

3つの国がありました。

 

いわゆる三国志ですね。

その後、それが変化し、

北魏と宋の2つになります。

 

倭はこのうち、

宋の方に、

遣いを送ります。

 

これは、

宋書倭国により

明らかになりました。

 

宋書倭国伝によると、

5世紀の初め、

倭の五王が相次いで

宋に遣使しました。

 

出展:404 您访问的页面找不到了_腾讯网 (qq.com)

 

倭の五王とは、

讃、珍、済、興、武の

五王です。

 

古墳時代前期と中期は

連合政権でした。

なので、倭の5人の王様が

それぞれ遣使したということです。

 

遣使した理由は、

朝鮮半島で外交上の立場を

優位にしたいというものだと

考えられています。

 

ここまでは、

倭国外での国際関係でした。

一方で、倭国内でも、

国際交流が行われます。

 

それは、渡来人ですね。

渡来人は朝鮮半島からの

移民です。

 

彼らは大陸のたくさんの

技術や文化を倭に

持ち込みました。

 

ヤマト政権は渡来人を

品部とよばれる技術者集団

組織し、各地に居住させました。

 

代表的なものは、史部です。

史部は、文書を作成する技術者集団です。

現代の識字率は99%ほどですが、

昔はそうではありませんでした。

 

特に、

この時代は

文字なんてありませんでした。

 

そんな中、

漢字が伝来します。

5世紀のことです。

 

出展:《千字文》全文、朗讀、楷書 (scripturetw.com)

 

当時は朝鮮半島の国々も

漢字を使っていたので、

漢字が倭に伝わりました。

 

代表的な人物は、

阿知使主王仁です。

彼等は、それぞれ

東漢氏、西文氏の祖です。

 

と言っても、何のことか

分からないですよね?

ここはただの暗記に

陥りやすいところだと思います。

 

とりあえず、東漢氏

「やまとのあやのうじ」、

西文氏は「かわちのふみのうじ」

と読みます。

 

「氏」は血縁で構成された

同族集団ですね。

ヤマト政権では、世襲制

政治を作り上げました。

 

政治に関わるような家族は

という形で組織され、

そこに政治的な役職名である

をあたえたということです。

 

なので、とりあえず、

東漢氏、西文氏という

文書作成をする一族がいた

ということですね。

 

阿知主使(あちおみ)や

王仁(わに)はこれらの氏の

祖先ということです。

 

他にも、渡来人に関しては、

弓月君が有名です。

弓月君秦氏の祖です。

 

弓月の君は、

養蚕、機織りを伝えたと

されています。

 

この阿知主使と王仁

弓月の君については

記紀」(『古事記』と『日本書紀』)に

載っています。

 

ちなみに、他の役職としては、

銅や鉄製品を作る韓鍛治部、

錦を織る錦織部

馬具をつくる鞍作部などがありました。

 

それと、

須恵器をつくる陶作部、

という役職もありました。

 

出展:C0067505 土師器_壺 - 東京国立博物館 画像検索 (tnm.jp)

 

須恵器とは、朝鮮の技術で

作成された陶磁器です。

のぼりがまで焼き、

灰色になります。

 

一方で、倭には、土師器という

土器がありました。

これは、弥生土器の系譜を引き、

赤色です。

 

出展:C0067505 土師器_壺 - 東京国立博物館 画像検索 (tnm.jp)

 

 

土師器と須恵器は区別しましょう。

ちなみに、この2つは併用されます。

須恵器が伝わったから、土師器が

使われなくなるということは起こりません。

 

最後に、6世紀になると、

儒教仏教が伝来します。

 

儒教百済五経博士により

伝えられます。

 

仏教は、百済の斉明王から

日本の欽明天皇仏像と経典が

贈られることで伝えられました。

 

ただ、この時は、儒教、仏教とも、

一般人はおろか、

大王や豪族などの間ですら

流行りません。

 

この2つが盛んになるのは、

もう少し後のことです。

とりあえず、この時は、

伝わっただけですね。

 

以上が今回の内容です。

今回の内容はかなり昔の話なので、

はっきりしたことがわからない

部分も多いです。

 

なので、情報量も多くはありません。

しかし、今回の内容は、

東漢氏や西文氏など、

難しい言葉も出てきました。

 

何より、

今回の内容は

忘れやすくなります。

 

なので、今回の内容は

しっかり復習する必要があります。

そして、今回の内容の復習には、

3つのステップがあります。

 

その3つのステップは、

 

①この記事を読み直す

 

古墳時代の生活や、

古墳自体の変化ともリンクさせ、

古墳時代全体の勉強をする。

 

③該当箇所の入試問題を

解いてみる

 

の3つです。

とはいえ、いきなり3つやるのは、

大変ですよね?

 

なので、まずは、

「この記事を読み直す」

ということをやってみてください!

 

最後まで読んでいただき、

ありがとうございました。