nihoonshibenkyouの日記

 私大の日本史で点数がとれない。そんな受験生に、ストーリーで学ぶ勉強法をお教えします!

古墳時代の国際関係は○○でマスターできる!


こんにちは!マロです!

 

さっそくですが、

古墳時代の国際関係」

について説明できますか?

 

高句麗百済しかわからない」

「渡来人というワードだけ覚えてる」

そんな風に思っていませんか?

 

もし、そう思っているのであれば、

かなり危険です。

なぜなら、古墳時代についても

受検で出ることが多くあるからです。

 

多くの人は、奈良時代平安時代

鎌倉時代室町時代、江戸時代、

明治時代あたりをひたすら

勉強していると思います。

 

そんな中、飛鳥時代より前の時代の勉強を

忘れてしまうのです。

なんせ、飛鳥時代より前については、

一番最初に習うのですから。

 

みんな、日本史の膨大な情報量に圧倒され、

目の前の内容や苦手な個所ばかりに

気を取られるようになります。

 

その結果、

昔過ぎてはっきりした情報の少ない

縄文、弥生、古墳時代の内容を

復習しなくなるのです。

 

もしかすると、

あなたもそうではありませんか?

 

そんなあなたは、

このままでは、

受検に落ちてしまいます。

そんなの嫌ですよね。

 

 

でも、もし、この記事を読み、

ここの内容を勉強すれば、

受検に合格することができます!

 

 

というわけで、

さっそく解説していきます!

 

古墳について見ていく前に

まずは、ざっくりと

飛鳥時代前の時代区分を

見ておきましょう。

 

日本は、もとは

氷河期でした。

この期間を更新世と呼びます。

 

これは、

地質学上の呼び名で、

考古学的には旧石器時代です。

 

その後、氷河期が終わり、

暖かくなりました。

この期間を、地質学では、

完新世と呼びます。

 

この完新世は、考古学では、

新石器時代と金石併用時代が

それにあたります。

 

 

旧石器時代は、打製石器という、

石などでただ打っただけの石器を

狩りなどで使用していた時代です。

 

しかし、新石器時代は、

石器を磨き、

使用していた時代です。

 

その後、新石器時代が終わり、

弥生時代になるのですが、

弥生時代は金属器が導入されました。

 

この弥生時代が、

金石併用時代に

該当します。

 

そして、弥生時代の後、

古墳が作られるようになるのですが、

この時期を古墳時代と呼ぶのです

 

弥生時代が紀元前4世紀から

(普通の)3世紀までで、

古墳時代は3世紀中ごろからです。

 

弥生時代には、水稲農耕が開始され、

そこから身分差が生じたり、

集落が誕生したりします。

 

そして、国ができ、

戦争が起こり、最終的に

大きな国ができます。

 

それとともに、

漢(のちに隋)との外交も

行います。

 

その後、3世紀の中ごろになると、

大規模な前方後円墳を中心とする、

古墳が西日本を中心に

出現します。

 

出展:箸墓古墳に関するトピックス:朝日新聞デジタル (asahi.com)

 

ここからが、

今回の内容です。

 

今回は、

古墳時代における

外交の変化を見ていきます。

 

古墳時代は、

古墳が造られた時期です。

古墳はお墓のことですね。

 

古墳が造られたのは、

ある一定の期間だけです。

そのうえで、古墳からは、

様々な情報を知ることができます。

 

研究者たちは、古墳から情報を

得る方法と、文献から情報を得る

方法の2種類で、古墳時代

具体的な様子を明らかにしました。

 

ちなみに、余談ですが、

前者の方法は考古学で、

後者の方法は文献史学です。

 

このような形で、

古墳が造られた時代を

古墳時代」と名付けたのですが、

古墳時代は、主に3つにわけられます。

 

前期、中期、後期

3つですね。

 

前期は3世紀中頃~4世紀後半

中期は4世紀後半~5世紀、

後期は6世紀~7世紀です。

 

そのうえで、

海外と関係を持つのは、

おおよそ4世紀からです。

 

もちろん、その前の、

邪馬台国の時代にも

海外との交流はありました。

 

しかし、

古墳時代になってからは

4世紀が初めてでした。

 

では、どこの国と

交流していたのでしょう?

簡単ですね!

 

朝鮮半島の国々と

中国王朝の国です

昔は、その範囲の国としか

交流していませんでした。

 

まず交流するのは、朝鮮半島の国々です。

朝鮮半島には、3世紀ごろ、

馬韓辰韓弁韓という3つの

国がありました。

 

出展:馬韓 - Mahan confederacy - JapaneseClass.jp

 

ただ、ここは、

国というより、

小国が連合した状態でした。

 

その後、朝鮮半島北部には、

高句麗という国ができます。

一方で、馬韓からは

百済という国がおこります。

 

さらに、

辰韓からは

新羅という国がおこります。

 

これらの国は、

小国連合ではありません。

 

弁韓に関しては、

国はおこらず、

小国が連合した状態が続きます。

 

ここを伽耶諸国といいます。

伽耶諸国だけは、小国が連合した

状態です。

ここ、間違わないでください。

 

出展:日本の旧石器時代・縄文時代・弥生時代・古墳時代 – きそがく (waq2trainer.com)

 

伽耶諸国は日本に鉄を供給していました。

この鉄の話は見逃しがちだと思うので、

しっかりと押さえておいてくださいね。

 

高句麗は南下政策を行っていました。

どんどん領土を広げようと

していたということですね。

 

新羅高句麗に従属していました。

要は、新羅高句麗の味方だったという

ことですね。

一方で、百済は倭と同盟関係にありました。

 

百済との関係は、

大化改新以降まで

続きます。

 

中大兄皇子

百済を救済しようとした

ということは中学校の歴史などで

習ったと思います。

 

中大兄皇子が」というと

語弊があるのですが、

とりあえず、天智天皇

時代あたりまで百済との関係は

続きます。

 

こう考えると、簡単ですね。

「倭&百済」VS「新羅高句麗

の構図が描かれます。

 

といっても、戦争してなくない?

そう思ったのではないでしょうか。

そんなことはありません。

 

高句麗好太王碑文によると、

倭は高句麗と交戦しています。

高句麗好太王碑文とは、

簡単にいうと、デカい石です(笑)

 

出展:楽しく覚える歴史年代 - 391 高句麗好太王の碑文 (fc2.com)

 

高句麗好太王碑文は、

414年に、長寿王が父親である

好太王の功績を載せたものです。

これは高句麗の都である丸都にあります。

 

この碑文によると、

391年、倭は百済新羅を占領し、

高句麗新羅を救済するために、

倭と戦ったということです。

 

戦争の結果、高句麗が勝ちます。

まあ、そうでしょうね。

もし、高句麗が勝たなければ、

こんな記録は残しません(笑)

 

ただ、

別の推測も出ています。

 

石上神宮という場所で、

七支刀という刀が見つかって

いるのですが、この刀から

百済と倭の同盟関係が推測されています。

 

まあ、このあたりの時代については、

はっきりしたことが分かっていないので、

正直、扱いにくいです。

 

あと、ここの内容で大切なのが、

「乗馬の風習が伝わった」

ということですね。

 

出展:天理参考館 - 第159回展「古代東アジア馬ものがたり」 (sankokan.jp)

 

高句麗との交戦により、

日本に乗馬の風習が伝わります。

その結果、古墳時代中期の

古墳の副葬品に馬具が含まれます。

 

以上が朝鮮についてですね。

次は、中国王朝に

ついてです。

 

中国大陸には、

3世紀ごろ、魏、蜀、呉という

3つの国がありました。

 

いわゆる三国志ですね。

その後、それが変化し、

北魏と宋の2つになります。

 

倭はこのうち、

宋の方に、

遣いを送ります。

 

これは、

宋書倭国により

明らかになりました。

 

宋書倭国伝によると、

5世紀の初め、

倭の五王が相次いで

宋に遣使しました。

 

出展:404 您访问的页面找不到了_腾讯网 (qq.com)

 

倭の五王とは、

讃、珍、済、興、武の

五王です。

 

古墳時代前期と中期は

連合政権でした。

なので、倭の5人の王様が

それぞれ遣使したということです。

 

遣使した理由は、

朝鮮半島で外交上の立場を

優位にしたいというものだと

考えられています。

 

ここまでは、

倭国外での国際関係でした。

一方で、倭国内でも、

国際交流が行われます。

 

それは、渡来人ですね。

渡来人は朝鮮半島からの

移民です。

 

彼らは大陸のたくさんの

技術や文化を倭に

持ち込みました。

 

ヤマト政権は渡来人を

品部とよばれる技術者集団

組織し、各地に居住させました。

 

代表的なものは、史部です。

史部は、文書を作成する技術者集団です。

現代の識字率は99%ほどですが、

昔はそうではありませんでした。

 

特に、

この時代は

文字なんてありませんでした。

 

そんな中、

漢字が伝来します。

5世紀のことです。

 

出展:《千字文》全文、朗讀、楷書 (scripturetw.com)

 

当時は朝鮮半島の国々も

漢字を使っていたので、

漢字が倭に伝わりました。

 

代表的な人物は、

阿知使主王仁です。

彼等は、それぞれ

東漢氏、西文氏の祖です。

 

と言っても、何のことか

分からないですよね?

ここはただの暗記に

陥りやすいところだと思います。

 

とりあえず、東漢氏

「やまとのあやのうじ」、

西文氏は「かわちのふみのうじ」

と読みます。

 

「氏」は血縁で構成された

同族集団ですね。

ヤマト政権では、世襲制

政治を作り上げました。

 

政治に関わるような家族は

という形で組織され、

そこに政治的な役職名である

をあたえたということです。

 

なので、とりあえず、

東漢氏、西文氏という

文書作成をする一族がいた

ということですね。

 

阿知主使(あちおみ)や

王仁(わに)はこれらの氏の

祖先ということです。

 

他にも、渡来人に関しては、

弓月君が有名です。

弓月君秦氏の祖です。

 

弓月の君は、

養蚕、機織りを伝えたと

されています。

 

この阿知主使と王仁

弓月の君については

記紀」(『古事記』と『日本書紀』)に

載っています。

 

ちなみに、他の役職としては、

銅や鉄製品を作る韓鍛治部、

錦を織る錦織部

馬具をつくる鞍作部などがありました。

 

それと、

須恵器をつくる陶作部、

という役職もありました。

 

出展:C0067505 土師器_壺 - 東京国立博物館 画像検索 (tnm.jp)

 

須恵器とは、朝鮮の技術で

作成された陶磁器です。

のぼりがまで焼き、

灰色になります。

 

一方で、倭には、土師器という

土器がありました。

これは、弥生土器の系譜を引き、

赤色です。

 

出展:C0067505 土師器_壺 - 東京国立博物館 画像検索 (tnm.jp)

 

 

土師器と須恵器は区別しましょう。

ちなみに、この2つは併用されます。

須恵器が伝わったから、土師器が

使われなくなるということは起こりません。

 

最後に、6世紀になると、

儒教仏教が伝来します。

 

儒教百済五経博士により

伝えられます。

 

仏教は、百済の斉明王から

日本の欽明天皇仏像と経典が

贈られることで伝えられました。

 

ただ、この時は、儒教、仏教とも、

一般人はおろか、

大王や豪族などの間ですら

流行りません。

 

この2つが盛んになるのは、

もう少し後のことです。

とりあえず、この時は、

伝わっただけですね。

 

以上が今回の内容です。

今回の内容はかなり昔の話なので、

はっきりしたことがわからない

部分も多いです。

 

なので、情報量も多くはありません。

しかし、今回の内容は、

東漢氏や西文氏など、

難しい言葉も出てきました。

 

何より、

今回の内容は

忘れやすくなります。

 

なので、今回の内容は

しっかり復習する必要があります。

そして、今回の内容の復習には、

3つのステップがあります。

 

その3つのステップは、

 

①この記事を読み直す

 

古墳時代の生活や、

古墳自体の変化ともリンクさせ、

古墳時代全体の勉強をする。

 

③該当箇所の入試問題を

解いてみる

 

の3つです。

とはいえ、いきなり3つやるのは、

大変ですよね?

 

なので、まずは、

「この記事を読み直す」

ということをやってみてください!

 

最後まで読んでいただき、

ありがとうございました。