nihoonshibenkyouの日記

 私大の日本史で点数がとれない。そんな受験生に、ストーリーで学ぶ勉強法をお教えします!

徳川家綱の幕政は○○でマスターできる!

 

出展:徳川家綱(徳川四代将軍) (tsukudo.jp)

 

こんにちは!マロです!

 

さっそくですが、

徳川家綱の幕政」

を説明できますか?

 

「将軍多すぎて覚えてない」

「まず、家綱が誰かわからない」

そんな風に思っていませんか?

 

もし、そう思っているなら、

かなり危険です!

なぜなら、江戸時代は

出題頻度が高いからです!

 

日本史は、どこも出る可能性があるので、

どこも大切なのですが、

江戸時代は特に重要です。

 

そう考えると、

今回の内容も当然重要になります。

出題される確率は決して低くありません。

 

なので、もし、この記事を読まず、

家綱の政治を勉強しなければ、

受検で点を落とし、

大学受験で不合格になります。

 

 

そんなの嫌ですよね?

一方で、この記事を読み、

家綱の政治をマスターすれば、

受検に合格できます!

 

 

今回の内容は大切ですね!

では、さっそく解説していきます!

 

出展:徳川家綱(徳川四代将軍) (tsukudo.jp)

 

まず、家綱が将軍になった時、

家綱はわずか11歳でした。

11歳ということは、

今でいうところの小学5年生くらいです。

 

さすがにこの年では、

政治は出来ません。

なので、誰かかわりに政治をする人が

必要です。

 

しかし、お父さんの徳川家光

死んでしまっていました。

というより、家光が死んだので、

家綱が将軍になったのです。

 

今までは、将軍の父親が

大御所として政治をしてきました。

しかし、家光は死んでしまっているので、

それは出来ません。

 

そこで、幕府は、保科正之松平信綱らが

家綱を支える体制をとります。

保科正之は聞いたことあるのでは

ないでしょうか?

 

出展:【徳川家光の異母弟:保科正之】名君と呼ばれた初代会津藩主の功績とは | 歴人マガジン (rekijin.com)

 

保科正之は家光の腹違いの弟です。

なので、家綱にとっては叔父にあたります。

この保科正之会津藩主でした。

会津というと、福島県あたりです。

 

要は、家綱にしてみれば、

会津に住むおじさんが江戸に来て、

自分を支えてくれたということですね。

 

松平信綱は老中です。

老中はざっくりいうと、

奉行などを統制する役職ですね。

それとともに、将軍のすぐ下にいる存在です。

 

あと、今回の内容とは関係ないのですが、

松平信綱は島原天草一揆という、

キリスト教徒たちの起こした一揆

鎮圧した人物です。

 

老中は、当然権力があり、

意見も通りやすいです。

家綱が幼い時は、

この2人が家綱を支えます。

 

ただ、徳川家綱が将軍の時代は、

非常に短いです。

1651年~1685年までなので、

わずか34年間のことです。

 

家綱は45歳の時、病死し、

その後はあの有名な、犬将軍の

徳川綱吉が将軍になります。

 

ちなみに、家綱が死ぬ間際の時期は、

大老酒井忠清が実権を握ります。

ちなみに、大老

老中より上の非常置の役職です。

 

このような政治体制をとっていたのですが、

重要なのは、この時代は平和だった

ということです。

 

出展:田染荘小崎の農村景観 | 全国文化的景観地区連絡協議会 (bunkeikyo.jp)

 

このような時代でも、

当然課題はあります。

家綱たちは、その課題を解決する

ことを目指し、政策を実施します。

 

というわけで、

具体的な政治の内容を

見ていきます。

 

まずこの頃、幕政体制は整えられていました。

ここは重要です!

江戸幕府のしくみは、徳川将軍の1代目から

3代目までの3人で整えられていたのです。

 

このような状態だと、当然安心ですね。

幕府に歯向かってくる者もいない、

外国も攻めてこない。

もう、平和な世の中です。

 

このような世の中でも

当然、社会課題は存在します。

それは、

牢人やかぶき者の存在です。

 

牢人は、聞いたことあるのでは

ないでしょうか?

牢人は、主人を失い、

落ちぶれた武士です。

 

出展:『 牢人大将 』 (artakuto.com)

 

牢人は今でいうところの

フリーターみたいなものですね。

もっというと、失業した

フリーターです。

 

そんな彼等は、戦乱を待ち望んでいました。

その理由は、

再就職したかったからです。

 

主人を失うということは、

御恩をもらえないということです。

今の世の中、仕事がないと

飯を食えないですよね。

 

同じ感覚です。

戦乱があると、他の主人が

牢人を家臣にすることがありました。

これは、現代でいうところの再就職ですね。

 

しかし、戦乱がないと、

家臣という役職の需要がないため、

誰かの家臣になることはできません。

そのため、牢人は戦乱を望んでいたのです。

 

かぶき者は、異様な姿をして歩く者

を指しました。

彼等は血の気が多く、

街で騒動を起こしていたのです。

 

出展:『傾奇者』 | 株式会社飯島企画 (ii-jima.co.jp)

 

まあ、かぶき者は、

今でいうところの、

ヤンキーみたいなものでしょう。

 

幕府は、江戸の町を脅かしていた

牢人やかぶき者の対策を進めて

いきます。

 

では、何がきっかけで牢人対策を

するようになり、

具体的にどのような対策をしたのでしょう?

 

このことを見ていくにあたり、

慶安の変末期養子の禁緩和」

という2つのことに触れる必要があります。

 

慶安の変」は牢人の反乱です。

一方、「末期養子の禁」は、

大名が死ぬ間際に養子をとることを

禁止したものです。

 

一見、関係なさそうに見えるこの2つが、

実は関係あります。

 

まず、慶安の変は、1651年(家綱将軍就任の年)に、

兵学者の由井正雪がリーダーとなり、

牢人たちが幕府に反乱を起こそうとした事件です。

ただ、幕府は未然に防ぎます。

 

出展:由井正雪の似顔絵 | キリヌケ成層圏 (kirinuke.com)

 

未然に防いだの?よかった!

そう思う人もいるかもしれません。

ですが、そんなのんきな話ではありません。

 

当時、牢人は増加していました。

そんな牢人たちが、幕府にクーデターを

起こそうとしたのです。

幕府は牢人の危険性を認知します。

 

そこで、幕府は、

「よし、牢人が増えないようにしよう!」

と考えます。

 

そこで、行った政策が、

末期養子の禁の緩和」なのです。

 

では、なぜ、「末期養子の禁緩和」が

牢人増加を防止するのに有効なのでしょう?

これを考える上で、まずは、

牢人が増加した背景を知る必要があります。

 

まず、武士が牢人になるのは、

主君を失った時です。

こういうと、大名が病気で死ぬことを

考えるかもしれません。

 

もちろん、それもあるのですが、

もっと大きな原因がありました。

それは、大名の土地が没収される

ということです。

 

大名が領地を没収されることを

「改易」というのですが、

これが牢人発生の一番大きな要因でした。

 

逆に言うと、

それだけ「改易」が多かった

ということですね。

 

これは偶然ではなく、

ちゃんと理由があります。

その理由が、「末期養子の禁」です。

 

末期養子の禁」は、

大名が死ぬ間際に養子をとることを禁止

したものですね。さっき述べました。

これは江戸時代初期に決定されます。

 

では、なぜこれが出されたのかというと、

改易を利用して、

大名をある程度つぶすためですね。

 

大名の領地没収は、大名が悪いこと

をしたときにも行われましたが、

大名の跡取りがいないときにも

行われました。

 

こっちの方が圧倒的に多いでしょう。

大名の跡取りがいないということは、

土地を継ぐ人がいないということです。

 

当時の大名の権力は、

土地と関わりが強く、世襲制でした。

領地内なのはもちろんのこと、

家臣に対する権力は、土地(のちに米)

を家臣に与えることで保障されていました。

 

しかし、土地が没収されてしまうと、

大名と家臣の関係が成り立たなくなります。

これは当然ですよね?

 

たとえば、会社がつぶれると、

給料が払えなくなり、

社員を維持できなくなります。

 

 

これと同じような感じです。

なので、改易になるということは、

会社が倒産するようなものですね。

 

そして、藩は個人商店みたいなものでした。

たとえば、豆腐屋があったとします。

しかし、子どもたちが継ぎたがりません。

他にも継ぐ人がいません。

 

そうなると、店をたたみますよね?

同じです。

ただ、藩の場合、「店をたたむ」

ということが幕府によって行われる

というだけです。

 

つまり、後継ぎがいないと、

領地は没収され、藩は存続できず、

家臣たちは牢人になってしまうということです。

 

当時は今よりも「死」が身近な世の中でした。

大名が病気や事故で急に亡くなることも

多かったのです。

 

こうなると、大名に子どもがいなかったりすると、

終わりですね。

「若いからまだ子ども作ってなかった―」

というようなことがあれば、終わりです。

 

じゃあ、早めに養子を取っておけばいいのでは?

そう思うかもしれません。

ですが、これも難しいです。

 

なぜなら、実子が生まれる可能性もあるからです。

養子をとって、その養子を後継ぎとして幕府に

登録し、その後、実の子が生まれた。

そうなると、大変です。

 

なので、大名が若い頃に養子をとるのは

難しいのです。

ですが、逆は簡単です。

 

人間、自分が死ぬということは自覚できるでしょう。

死ぬ前に子をつくる元気はないはずです。

そこで、養子をとるのは賢いですね。

 

ただ、死ぬ前に養子をとるのは、

というより、死ぬ前に養子をとり、

その養子を後継ぎとして届け出るのは、

難しいことでした。

 

当時は医療技術が今よりも未発達だったため、

大名が急に死ぬこともありました。

それとともに、死ぬ前の病人は

正常な判断をすることが難しいこともあります。

 

なので、末期養子は実質的に、

大名が死んだあとに、

大名の遺族が養子をとる

ということを意味していました。

 

こうなると、この養子が大名の

意志ではなかった可能性がありますね。

幕府はここに付け込み、

末期養子を禁止したのです。

 

ただ、本当の狙いは、

大名潰しでした。

江戸時代初期、将軍に匹敵するほどの

大名もまだたくさんいました。

 

出展:大名行列 - だいみょうぎょうれつ - - 文庫屋「大関」 (oozeki-shop.com)

 

そのため、幕府はある程度、

大名をつぶしておきたいと考えていたのです。

そして、「末期養子の禁」は見事、

そのような役割を果たします。

 

しかし、効果があり過ぎました。

たくさんの大名がつぶれ、

その結果、路頭に迷う牢人が

増加し過ぎていたのです。

 

そして、たくさんの牢人が

江戸の町に流れてき、

社会問題となります。

 

なので、

末期養子の禁」を

緩和したのですね。

 

後継ぎのいないことによる

改易から問題が発生しているので、

そこをかえればいいと考えたのでしょう。

 

ところで、「末期養子の禁緩和」

がどのようなものだったのかというと、

「藩主が50歳未満なら死ぬ間際に養子を

取ることを許可する」というものでした。

 

もう少し、正確に言うと、

17歳から50歳です。

ただ、なぜ、50歳未満なのかはあまり

わかっていません。

 

それでも、

50歳未満ということも

押さえておきましょう。

 

その後、江戸の町で、

牢人やかぶき者の対策を進めます。

以上が牢人についてです。

 

 

その後、明暦の大火という火災が起こり、

江戸で甚大な被害が出ます。

この時、江戸の町の約半分が焼け、

江戸城も焼けてしまいます。

 

出展:明暦の大火(振袖火事)は日本史上最大 3~10万人が亡くなり城も焼失 - BUSHOO!JAPAN(武将ジャパン) - 2ページ (bushoojapan.com)

 

しかし、幕府は江戸の町を

しっかりと復興させます。

けれど、復興が原因で、財政難に

なりました。

 

1963年には家綱が成人し、

代替わりの武家諸法度をだしました。

武家諸法度は武士を統制する決まりごと

のことですね。

 

武家諸法度は、ほとんどの将軍が

新しいものを出します。

7代、15代将軍を除き、

代々の将軍は武家諸法度を示しました。

 

このとき、「殉死の禁止」が口頭で

伝えられます。

「殉死」とは、主君の死を追って、

家臣も死ぬことです。

 

 

なんか、いきなりすぎますね。

「殉死」は、要は自殺です。

そんなものは、個人の問題で、

幕府を揺るがすものにはならない。

 

そう思いませんか?

当時は民主主義とかではないので、

世の中をよくする的な政策は少ないように

思います。

 

幕府が動く時は、大体、

幕府の脅威になるものがあるときか、

社会混乱を招いているものがあるとき

だと考えられます。

 

「殉死」なんて、家臣が勝手に死ぬだけで、

わざわざそれを禁止する必要はないのでは?

そう思うでしょう。

 

「殉死によって、優秀な人材が失われるのを

防ぐため」に殉死を禁止した

と言われています。

 

ただ、狙いは別にあるかもしれません。

というのも、これによって

下剋上の風習がなくなった」

という効果を上げているからです。

 

ちなみに、

下剋上は家臣の身分のやつが

大名に成り上がることですね。

 

では、

なぜ殉死の禁止によって下剋上

なくなるのでしょう?

 

これを考えるにあたり、

殉死の禁止による、主従関係の

構造の変化を押さえる必要があります。

 

具体的には、

「主従関係が個人のものから、

家単位のものへ変化した」ということです。

 

 

家臣が主君を追って自殺するということは、

家臣と主君の関係は個人的なものだった

ということになります。

 

といっても、ピンとこないですよね。

そこで、少し考えてみてください。

たとえば、あなたが家政婦だったとします。

それで、働く家の主人が雇い主とします。

 

この時、雇い主のみと契約した場合、

雇い主が死ぬと契約は終了します。

もちろん、家族のせわもするかもしれませんが、

契約自体は主人の死をもって終わります。

 

なぜなら、家政婦のあなたは雇い主という

個人に仕えているのであり、

家族の世話などは雇い主から

頼まれているに過ぎないからです。

 

すなわち、他の家族の世話は言ってみれば、

雇い主から頼まれたからやっているだけで、

雇い主の家族とは、

業務上関わっているにすぎないのです。

 

一方で、もし、契約相手が家族全員だった

場合、家族すべてが主人です。

なので、ご主人(お父さん)が死んでも、

家政婦のあなたはその家で働きつづけます。

 

今回の内容も、これと同じです。

結びつきが個人間のものなら、

家臣が主人を追って死ぬこともできます。

 

しかし、もし、結びつきが家同士なら、

主君が死んでも、家臣は後を追うことは

できません。

 

なぜなら、家臣は、主君の死後、

主君の後継ぎに仕えなければならない

からです。

 

加えて、家同士の結びつきなので、

主君の息子は主君になり、

家臣の息子は家臣になります。

 

 

そして、

この変化により、

下剋上が成り立たなくなります。

 

たとえば、家臣が死んだあと、

大名になろうと考えたとします。

この時、もし大名と家臣が個人的な

主従関係なら、これは可能です。

 

なぜなら、

大名が死んだあと、

次に仕える相手がいないからです。

 

一方、家単位ならば、違ってきます。

もし、家単位の主従関係の場合、

大名が死んでも、

家臣は大名の跡取りに仕えなければ

ならないからです。

 

こうすると、次第に下剋上という

概念がなくなりますね。

もし、下剋上があちこちでおこると、

戦乱の世になるかもしれません。

 

というより、平和な世の中を維持する

ためには、身分制度のような

「秩序」が必要だったのかもしれませんね。

 

さらに、翌年には、

すべての大名にいっせいに

領地宛行状を発給します。

 

「領地宛行状」とは、

知行の割り当てを保障する文書です。

これは言ってみれば、保証書だったり、

許可書みたいなものです。

 

出展:加藤清正領知宛行状 (waseda.ac.jp)

 

幕府がこれを出した理由は、

将軍の権威を確認するためです。

 

その後、幕府は幕領の検地を

いっせいに行い、

財政収入の安定を図りました。

 

ここまでは、対武士の話でしたが、

幕府は寺院や神社に対する政策も

実施します。

 

出展:【寺院法度と諸宗寺院法度の違い】わかりやすく解説!!それぞれの意味や目的など | 日本史事典.com|受験生のための日本史ポータルサイト (nihonsi-jiten.com)

 

まず、諸宗寺院法度というものを出します。

これは、法度なので、決まり事ですね。

つまり、これは、寺院や神社の決まり事です。

 

幕府は諸宗寺院法度を出し、

すべての宗派や僧侶に共通する

統制令を出します。

 

ところで、幕府が仏教に介入していく

理由は一つしかありませんね。

それは、キリスト教対策」です。

 

幕府は、島原天草の乱以降、

キリスト教根絶に徹底的に

取組むようになりました。

 

まず、すべての国民を

どこかの寺に強制的に所属させました。

これを寺請制度と言います。

 

寺請制度は

国民をどこかの寺に

登録させる制度です。

 

それによって

キリスト教徒も仏教徒

転宗させ、キリスト教禁止体制を

強化しました。

 

この際、宗門改帳というものが

発行されました。

これは、各人がどの宗派に属しているかを

記載しています。

 

ちなみに、

これは、後に戸籍の役割を

果たします。

 

出展:西南学院大学博物館 | SEINAN GAKUIN UNIVERSITY MUSEUM (seinan-gu.ac.jp)

 

寺には家ごとに所属していたので、

宗門改帳は

戸籍の役割を果たしたのです。

 

そして、この宗門改帳に基づき、

所属している寺院が、寺請証文という、

身分証明書を発行してくれます。

 

そして、諸宗寺院法度で、

寺請証文を発行できる寺を

確定させました。

 

もとは、寺院法度というものがあり、

それは各宗派ごとに統制していました。

しかし、諸宗寺院法度では、

全ての宗派の僧侶共通の形で統制します

 

具体的な統制としては、

寺にランクを付け、

縦の構造にする本末制度などです。

 

ここまでの制度を整えて、

キリスト教を防いだのは

凄いことです。

 

ただし、実は、

キリスト教以外にも

厄介なものがありました。

 

それは、

日蓮宗不受不施派」です。

これは、ひとことでいうと、

とがったヤバい宗派です。

 

出展:日蓮宗 | 茨城県水戸市にある日蓮宗のお寺・本行寺 (hongyouji.jp)

 

これは日蓮宗の一派なのですが、

法華経を信じない者から施しを受けず、

法華経を信じないものに施しをしない

というポリシーを掲げていました。

 

ただ、ヤバいのはそこではありません。

不受不施派は「幕政よりも宗教が優越している」

と主張していたのです。

 

幕府からすれば、

自分達の権力を否定するやつらは嫌いです。

なので、こいつらも取り締まります。

 

ということで、仏教を利用し、

キリスト教日蓮宗不受不施派

を取り締まるのですが、

仏教だけが認められていたわけではありません。

 

どういうことかというと、

神道も認められていたのです。

諸宗寺院法度を出したのと同年に、

幕府は「諸社禰宜神主制度」を出します。

 

出展:神道について語りましょう! | ガールズちゃんねる - Girls Channel -

 

以上が宗教に関してです。

最後に、百姓対策も見ておきましょう。

幕府は百姓に対し、

「分地制限令」というものを出します。

 

これは、

十石未満の百姓は分割相続禁止

というものです。

 

分割相続すると、

田畑は細分化します。

そうなると、農民一人一人の

収入は激減しますよね?

 

出展:【江戸時代の農民の生活】貧しい!?食事や服装・家・髪型などの暮らしについて! | 日本史事典.com|受験生のための日本史ポータルサイト (nihonsi-jiten.com)

 

幕府はそれを防いだのです。

百姓は年貢を納めてくれる大切な存在です。

なので、百姓が潰れないように

気を付ける必要がありました。

 

家綱の幕政は以上です。

内容としては、①対武士、②明暦の大火、

③対宗教、④対百姓でした。

 

この中で、特に①の政治は、

文治政治への転換」という見方ができます。

文治政治とは、儒教を重んじた政治」

という意味です。

 

家光の時までは、弾圧を軸とする

武断政治」が中心でしたが、

家綱の時からは徐々に

文治政治」へと転換していきます。

 

出展:【文治政治とは】簡単にわかりやすく解説!!きっかけや影響・その後など | 日本史事典.com|受験生のための日本史ポータルサイト (nihonsi-jiten.com)

 

この理由としては、

世の中が平和になり、幕府の権力も安定してきた

ということが大きいでしょう。

 

とりあえず、「武断政治」から「文治政治

への転換は、次の将軍の時にも出てくるので、

覚えておいてください。

 

というわけで、

家綱の幕政を解説しましたが、

今回の内容は、非常に複雑です。

 

特に、「末期養子の禁緩和」

はおそらく教科書にも

あまり詳しく載っていないでしょう。

 

なので、

ここから2つのステップを踏んで、

勉強する必要があります。

 

そのステップは、

 

①この記事を読み直し、

今回の内容を自分なりにまとめてみる。

 

②それを踏まえ、紙に記述するなどして、

今回の内容を自分で説明してみる。

 

という2つです。

 

ただ、

いきなり2つのステップを踏むのは

大変だと思います。

 

なので、まずは、

「この記事を読み直す」

ということをやってみてください。

 

最後まで読んでいただき、

ありがとうございました。