nihoonshibenkyouの日記

 私大の日本史で点数がとれない。そんな受験生に、ストーリーで学ぶ勉強法をお教えします!

大日本帝国憲法の内容は○○でマスターできる!

こんにちは!マロです!

 

さっそくですが、

大日本帝国憲法

について説明できますか?

 

「戦前の憲法ということ

しかわからない」

伊藤博文しかわからない」

そんな風に思っていませんか?

 

もし、

そう思っているのであれば、

かなり危険です。

 

なぜなら、

大日本帝国憲法は、

丁寧に学習しないと

頭にはいらない内容だからです。

 

もし、なんとなく暗記し、

正誤問題でここについての

問題が出てくれば、

確実に点を落とします。

 

ここで点を落とし、

受検に落ちる。

そんなの嫌ですよね?

 

 

一方で、もしこの記事を読み、

しっかり勉強すれば、

確実に受験に受かります!

 

 

さっそく解説していきます!

 

大日本憲法で重要なのは、

天皇の存在」です。

世界の日本国憲法との大きな違いは、

天皇の存在です。

 

ネタバレになりますが、

この憲法「欽定憲法

と呼ばれるものです。

 

欽定憲法とは、

天皇が定め、国民に

授ける憲法という意味です。

 

出展:1889年2月11日 大日本帝国憲法発布の日 (archives.go.jp)

 

なので、この憲法は、

天皇が国民に授けたもの

ということですね!

 

この憲法は、語弊がありますが、

むちゃくちゃ簡単に言うと、

天皇が政治を行使しています」

というスタンスの憲法です。

 

ところで、

そもそも、

憲法とはどういったものでしょう?

 

これが分かっていないと、

日本が憲法を制定した

理由がわかりませんよね。

 

憲法」とは、

「国民の権利や自由を守るために、

国家権力を制限するもの」です。

 

たとえば、憲法がなかった場合、

政府の政策に反対した人を

皆殺しにする法律が

制定されるかもしれません。

 

まあ、議会の仕組み上、

そんなことは起こらないかも

しれませんが、場合によっては、

議会の維持すら危なくなるかも

しれません。

 

こうなる可能性がある理由は

簡単ですよね?

国家を縛る法律がないからです。

 

このように、国家が国民の人権を

みだりに侵害したりしないために

憲法があるという考え方を

立憲主義と言います。

 

自由民権運動の部分で、

立憲改進党というものが出てきますが、

この政党の背景には、

このような考え方があります。

 

要は、「法の支配」ということです。

法が権力者の上にあり、

権力者であれど、法に従わなければ

ならないということです。

 

出展:山川&二宮ICTライブラリ (ywl.jp)

 

明治時代より前は「人の支配」でした。

しかし、憲法が制定されたことで、

「法の支配」に変わったのです。

 

なので、大日本憲法には、

天皇ですら逆らえません。

日本は、天皇よりも、憲法の方が

上にある国になったということですね。

 

ところで、なぜ、

憲法が必要だったのでしょう?

それは、簡単ですね。

 

日本が近代国家であることを

アピールするためです。

 

日本の最大の悩みは

不平等条約でした。

これを解決するには、日本が

法治国家であると示す必要があったのです。

 

日本が江戸時代だった1787年

アメリカではアメリカ合衆国憲法

制定されます。

 

アメリカ合衆国憲法の制定 | 世界の歴史まっぷ | 憲法記念日, 世界の歴史, 歴史

出展:アメリカ合衆国憲法の制定 | 世界の歴史まっぷ | 憲法記念日, 世界の歴史, 憲法 (pinterest.jp)

 

これは、世界で初めての近代憲法です。

その後、ヨーロッパ諸国でも

憲法が制定されます。

 

これは18世紀の終わりごろなので、

日本では、田沼意次あたりの時期

ですね。

 

その後、19世紀になると、

憲法が近代国家の証になります。

大日本帝国憲法

このような経緯があってのことです。

 

日本はこのようにして、

近代国家としての体裁を整え、

植民地化を免れた

ということですね。

 

もともと明治政府は、

討幕に協力した薩摩藩

長州藩土佐藩に強い権限を

与えていました。

 

そのため、

薩長を中心とする

政治がおこなわれていました。

 

そんな中、1874年には、

板垣退助後藤象二郎らにより、

民撰議院設立の建白書が

提出されます。

 

これは、

薩長中心の政治を批判し、

国会の解説を主張するものです。

 

その後、板垣退助大久保利通

会談し、政権に復帰します。

実は、板垣退助

政府を降りていました。

 

この時、板垣退助が復帰する

条件として、立憲制へ徐々に

移行することが約束されたのです。

 

この時、実は自由民権運動という

ものが起こっていたのですが、

その後、自由民権運動が全国化します

 

自由民権運動

出展:日清戦争の全容に迫る!【4】日清戦争前夜の日本の情勢 (tetsu-log.com)

 

自由民権運動は、憲法制定や国会開設を

求める政治運動です。

民撰議院設立の建白書がきっかけで

起こりました。

 

そんな中、政府の中では、

自由民権運動への対応策をめぐり、

意見が割れていました。

 

伊藤博文は、国会開設は時期尚早

と言い、大隈重信は、

国会はすぐに開くべきだ

と主張していたのです。

 

その後、官有物払下げ事件という

汚職のような事件が起こり、

その事件をきっかけに、

大隈重信を政府から追放します。

 

この事件に関しては、

情報過多になるため、

ここではあまり触れません。

 

とりあえず、

大隈重信を政府から追い出した出来事を

「明治十四年の政変」といいます。

 

そして、この時、政府は、

10年後に国会を開設することを

約束します。

 

ここまでの流れとしては、

簡単にまとめると、

多くの人が、広く開かれた議会を

望んでいたということですね。

 

政府もこれに同調するのですが、

政府内で意見が分かれていました。

意見の対立の形としては、

先述した通りですね。

 

大隈重信は、

「今すぐ国会開こうぜ!!」

と言っていました。

 

それに対し、伊藤博文は、

「国会はまだ早い!」

と言っていたのです。

 

ここ、勘違いしないでください!

2人とも、国会開設には賛成でした。

しかし、国会開設の時期をめぐり、

意見が分かれていたのです。

 

そして、

明治十四年の政変で、

大隈重信を追い出します。

 

ということは、すなわち、

「今すぐ国会開設すべき」

という意見を排除したということですね。

 

なので、伊藤博文

国会開設や憲法作成の

中心になっていきます。

 

明治十四年の政変の翌年の

1882年、政府は伊藤博文らを

ヨーロッパに派遣し、

憲法理論を学ばせます。

 

伊藤博文はドイツに行き、

グナイストシュタインという

2人の人物から

憲法理論を学びます。

 

出展:伊藤博文を暗殺した安重根 | 江夏正敏(えなつまさとし) 幸福実現党・幹事長のオフィシャルブログ (enatsu-masatoshi.com)

 

グナイストはベルリン大学

法学者です。

シュタインは、ウィーン大学

国家学の教授です。

 

なので、

伊藤博文の学んだのは

ドイツ流の憲法ですね。

 

ところで、なぜ、

ドイツなのでしょう?

その答えは、この記事の

冒頭の内容あたりにあります。

 

答えは、ドイツの憲法は、

君主制が強いものだから

です。

 

江戸時代、日本は、

実質的な政治は

将軍が行っていました。

 

しかし、

それが行き詰まり、

政権が天皇に返されたのです。

 

出展:明治天皇とは何? わかりやすく解説 Weblio辞書

 

それでも、いくつかの政党が結成され、

主権は国民にあるというフランス流や、

国民と天皇が一緒に国を統治すべき

というイギリス流の考えも出てきます。

 

それでも、というより、

それらに対抗する形をとったのか、

政府は天皇が国を統治する

というスタイルを選択します。

 

なので、ドイツ流の憲法

参考にしました。

納得いく話ですね。

 

その後、伊藤は帰国し、

1884年には華族

出されます。

 

これは、爵位を定め、

その爵位

旧大名、公家、維新の功労者に

授与するものです。

 

これは、貴族院の準備ですね。

その1年後の1885年には、

内閣制度が制定されます。

 

この時、太政官制が廃止されました。

太政官制とは、太政官をトップとする

政治体制です。

 

太政官には、行政、司法、

立法が置かれ、

形式的に三権分立の体制を

とっていました。

 

一方で、内閣は

内閣総理大臣をトップとし、

そこに各省を置く

ものです。

 

この時までは、

各省庁のトップは、

○○卿と呼ばれていたのですが、

それが○○大臣にかわります。

 

ちなみに、ここまでの説明には、

少し語弊があります。

太政官制、内閣制度とも、

最高権力者は天皇です。

 

なので、各大臣は

天皇を個別にサポートする

のが仕事でした。

 

まあ、というよりは、

そういう解釈なのですが(笑)

 

そして、後に、

裁判所と、

議会は内閣の外に置かれます。

 

まあ、徐々に制度が整っていくので、

次の動きを見ていきましょう。

次は、1886年枢密院設置です。

 

枢密院とは、憲法、選挙法など

特別な法律、会計、条約などについて、

天皇の諮問(意見を求めること)に

答える機関のことです。

 

伊藤らは、

ここで、

憲法草案を審議しました。

 

憲法の草案審議には、

ドイツ人顧問のエス・レル

助言を求めました。

 

出展:幕末写真館 (dokidoki.ne.jp)

 

この時、

伊藤博文

枢密院議長を務めます。

 

実は、伊藤は内閣制度制定時、

総理大臣だったのですが、

枢密院で活動するにあたり、

首相の座を黒田清隆に譲りました。

 

そして、枢密院には優秀な仲間たちが

いました。

井上毅、伊東巳代治、金子堅太郎の

3人です。

 

井上毅は印象的ですね。

「こわし!」みたいな、

怖い人なのかな?みたいな

感じですね(笑)

 

この人は、ドイツ憲法

翻訳します。

ドイツ語がバリバリにできた

ということですね。

 

伊東巳代治(みよじ)は伊藤の

憲法調査に同行した人です。

金子堅太郎は、

アメリカで法律学を学んだ人物です。

 

憲法作成は主に、

伊藤博文とこの3人が

中心になって進められました。

 

そして、憲法が完成します。

1889年、黒田清隆内閣のもと、

大日本憲法が発布されました。

 

出展:1889年2月11日 大日本帝国憲法発布の日 (archives.go.jp)

 

これは、先ほど述べた通り、

天皇が定め、

国民に授ける憲法です。

 

この憲法では、

天皇は国の元首であり、

統治権を総攬するもの

であると定められています。

 

これは要するに、

日本は天皇が統治している

ということですね。

 

そのうえで、国民は臣民

いう立場です。

臣民は天皇に支配される立場の

民ということですね。

 

そして、

臣民は法律の範囲内で

権利が保障されます。

 

天皇が支配権をもっていると

いうことですね。

なので、政治組織もそのように

組織されます。

 

内閣に関しては

先ほど説明しました。

総理大臣がトップで、

その下に各省がある状態です。

 

内閣は、行政ですね。

行政は政策を実施する

ところです。

 

ところで、政府には、

他にも権力を持っている

ところがありますよね?

 

立法と司法です。

立法は法律を作るところ、

司法は裁判をするところですね。

 

出展:【概要】大日本帝国憲法下の国家機構 – 太平洋戦争とは何だったのか (historyjapan.org)

 

大日本帝国憲法のもとでは、

立法府も司法府も行政府も

天皇の下で並んだ状態です。

 

一応3権は分立しているのですが、

現代のように相互に監視し合う

体制はとっていません。

 

なので、

三権分立というより、

三権独立のような状態です。

 

そのうえで、立法府である

議会は、衆議院貴族院の2つで

構成されています。

 

衆議院は民衆の選挙によって

選ばれた人が議員になります。

といっても、選挙に行ける人は

限られていたましたが。

 

まあ、一応は、

民衆の選んだ人が

議員になるという状態ですね。

 

一方で、貴族院は、

華族身分の議員である華族議員と、

天皇が選ぶ勅任議員に2つで構成されて

いました。

 

そして、

両院は同等の権利を持ちました。

ここ、間違わないでください!

 

そのうえで、

「宮内府中の別」

というルールがありました。

 

これは、宮内省

内閣の外に置かれる

ということです。

 

そして、天皇には、

天皇大権」

というものがありました。

 

出展:『陪審手引』で見る裁判員制度(1)|トピックス|裁判員制度はいらないインコのウェヴ大運動 (saibanin-iranainko.com)

 

これは、

天皇には政府が

関与できない権限がある

ということです。

 

たとえば、

統帥権」や「緊急勅令」

宣戦・講話や条約の締結、

戒厳令」などが挙げられます。

 

統帥権は、

軍の指揮権のことです。

現代は、文民統制と言い、

一般民衆が軍隊を統制するように

なっています。

 

と言っても、

日本は軍隊を持っていないので、

軍隊の代わりに自衛隊の統制

ではありますが。

 

当時は、

軍の統制権は天皇

ありました。

 

天皇が軍を動かすとき、

陸軍や海軍がサポートする

という体制を取っていました。

 

まあ、建前だけで、

実際は後に軍隊が暴走するのですが、

その裏には、こういった

政治背景があったのです。

 

「緊急勅令」

議会を通さなくても

法律を作ることができる

ということです。

 

ただ、あとで承認は

必要です。

 

戒厳令

戦争や内乱などの非常時に、

立法権司法権、行政権の一部、

またはすべてを軍に委ねることです。

 

戒厳令」は何回か出されます。

が、意外に、教科書にも資料集にも

説明がないので、覚えておいてください。

 

以上が大日本憲法についてです。

大日本憲法ができる前に、

私擬憲法がいくつか作られるのですが、

それは今回は割愛します。

 

今回の内容は、

内容量が多いです。

しかも、公民のような

内容も含まれています。

 

なので、

ここをマスターするためには、

しっかりとした復習が必要です。

 

復習の流れとしては、

以下の4つです。

 

①この記事を読み直す

 

憲法誕生までの流れを、

教科書などを読みながら学習する。

 

③現代の憲法と比較し、

明治憲法の文脈をつかむ。

 

④入試問題を解いてみる。

 

以上の4つです。

 

とはいえ、

いきなり4つやるのは

大変ですよね?

 

なので、まずは、

「この記事を読み直す」

ということをやってみてください!

 

最後まで読んでいただき、

ありがとうございました。

 

日本史の政治史の勉強は○○でマスターできる!

こんにちは!マロです!

 

さっそくですが、

「日本史の政治史の勉強」

どのようにやっていますか?

 

「とにかく暗記!」

「過去問をひたすら解く」

「授業ノートをとにかくまとめ直す」

そんな風な勉強をしていませんか?

 

このような勉強をしていては、

受検に合格できない可能性が高いです。

 

もちろん、人それぞれ自分にあった

勉強法は違うかもしれません。

なので、さっきの例のような勉強法で

試験で点を取る人もいるかもしれません。

 

しかし、もし、このような

勉強をし、試験や過去問で点を

取れないのであれば、

やめた方がいいです。

 

ひたすら暗記、

ひたすら過去問を解く、

ひたすらまとめる

 

このように戦略もなく、

ひたすら勉強するのは

危険です。

 

そもそも、結果が出ていない時点で、

勉強法は変えた方がいいです。

 

それでも、勉強法を変えるのを恐れ、

「今は成果がでていないけど、

このまま続ければ大丈夫」

「いずれうまくいく」

 

このように考えてしまい、

最終的に、勉強法した内容ではなく、

勉強量を根拠にしてしまう。

 

そんな風な人、

多いのではないでしょうか?

 

実際自分自身がそうでした。

日本史の授業プリントを

アカセルで隠し、ひたすら

言葉の暗記をしていた時期が

ありました。

 

しかし、そこには

ある落とし穴がありました。

そして、そこに気付き、

勉強法を変えたのです。

 

この記事を読めば、

日本史の勉強で大切な

ポイントがわかります。

 

なので、ぜひ読んでいただきたい

ですが、もしかすると、

あなたはこの記事を読む時間がない

と考えているかもしれません。

 

しかし、もし、この記事を読まず、

今までの勉強法を続けていれば、

確実に受験に落ちます。

 

 

一方で、この記事を読み、

勉強法をかえれば、

確実に受験に合格できます。

 

 

というわけで、

さっそく解説していきます。

 

日本史の政治史の勉強で重要なことは、

「時代背景を押さえること」

「政治を行った人のキャラを

イメージする事」

です。

 

日本史に出てくる政治史の内容は、

当然、日本の歴史を学ぶ上で、

必要なものです。

 

誰かの実施した政策をすべて

教科書にぶっこんでいる場合も

あるかもしれませんが、

 

必要なものが

ピックアップされていると

考えてもいいでしょう。

 

何かの政策が実施されたり、

何かの法律が施行される背景には、

何かしらの社会的背景があります。

 

出展:「社会貢献」って何?っていうか社会って何?? - とある編集者の晒しな日記 (hatenadiary.jp)

 

それをまず、押さえるべきです!

それを押さえることで、

きっちりとした理解がなされ、

脳に定着します。

 

といっても、わかりにくいと思うので、

具体例を上げます。

 

徳川4代将軍である家綱は、

武断政治から文治政治へと

移行させる流れをつくりました。

 

武断政治とは、弾圧を中心とする政治です。

一方で、文治政治は、儒教に基づいた

政治です。

 

牢人の反乱である

慶安の変が起こると、

対策として末期養子の禁を緩和し、

その後、殉死の禁止を口頭で伝えました。

 

出展:徳川家綱(徳川四代将軍) (tsukudo.jp)

 

家綱の内容としては、

まだあるのですが、

一旦ここまでにします。

 

まずは、暗記しようとして

みてください。

まあ、これくらいの内容であれば、

頭にはいりますね。

 

けど、明日には忘れていると思います。

なぜなら、単なる暗記だからです。

一方で、情報を加えてみます。

 

まず、この時代は、

家康から家光までの期間を経て、

徳川家の権力が確立された状態でした。

 

歯向かってくるものは誰もいません。

また、鎖国体制に入ったので、

外国とトラブルになる可能性も

低い状態でした。

 

そのため、平和で安定した時代だった

のです。

そこで問題になったのが、

「牢人」の存在です。

 

牢人は言ってみれば、

再就職先のない武士のようなものです。

主君を失い落ちぶれていました。

なので、彼らは町では危険な存在です。

 

そこで、家綱は対策を取ります。

それが末期養子の禁緩和です。

当時、大名の改易(領地没収)の約4割が

後継ぎがいないことによるものでした。

 

領地が没収されると大名は

成り立ちません。

なぜなら、大名の権力は

支配する土地に基づいているからです。

 

なので、対策として、

もともと禁止していた、

死ぬ間際に養子をとる事を

条件付きで許可します。

 

出展:『 牢人大将 』 (artakuto.com)

 

いかがでしょうか。

もちろん、政策の内容にも

情報を肉付けしました。

 

しかし、ここの話は、

平和な時代になったということや、

幕政が安定してきていたという

話がないと成り立ちません。

 

背景を押さえると、

政策や法律の意味が分かり、

その時代の状況が想像しやすくなります。

 

次に、「政治を行った人の

キャラをイメージする事」

ですが、これはつらつら続く

天皇や将軍、首相たちに有効です。

 

天智天皇天武天皇持統天皇

聖武天皇孝謙天皇称徳天皇

光仁天皇聖武天皇

 

徳川家康徳川秀忠徳川家光

徳川家綱徳川綱吉徳川家宣

徳川家継

 

伊藤博文黒田清隆山県有朋松方正義

伊藤博文松方正義伊藤博文

 

見ているだけでしんどいですね。

ただ、これは暗記する必要は

ありません。

 

まあ、順番は押さえる必要がありますが、

それは先ほど述べた、

時代背景を押さえれば大丈夫です。

 

そのうえで、

各人物の特徴を押さえると、

政治史が定着します。

 

たとえば、天武天皇は、

壬申の乱天智天皇の息子と

争って勝ったことで即位した天皇です。

 

天武天皇天智天皇の兄弟です。

持統天皇は、天武天皇

奥さんですね。

 

他には、徳川綱吉

挙げられます。

徳川綱吉は「犬将軍」と

呼ばれています。

 

出展:犬将軍 徳川綱吉 | 江戸っ仔犬 - 江戸っ仔犬 (hateblo.jp)

 

その理由は、

生類憐みの令ですね。

まあ、これは犬だけでなく、

全ての生き物を保護せよ

というものなのですが。

 

とりあえず、印象に

残りやすいはずです。

 

徳川将軍だと、特に、

子どもの時に就任した将軍は

押さえるべきですね!

 

4代将軍家綱は、保科正之が、

6代将軍家宣、7代将軍家継には、

新井白石が補佐します。

 

実質的には、補佐する人が

実権を握るので、

こちらのキャラも押さえるべきです。

 

あとは、自由経済賛成派の

田沼意次も印象に

残りやすいですね。

 

出展:田沼意次 - 牧之原市ホームページ (city.makinohara.shizuoka.jp)

 

時代背景と合わせて、

為政者のキャラを押さえると、

政権を握った順番を暗記しなくても、

順番は頭にある程度入ります。

 

そして、順番が頭にはいるだけでなく、

一人の為政者が行った政策を

一括して押さえられます。

 

こうなれば、当然、

定着しますね。

あとは、各政策や法律の

内容を丁寧に押さえるだけです。

 

ということで、政治史の勉強で

大切なのは、

「時代背景を押さえること」と

「政治を行った人のキャラを

イメージする事」

でした。

 

ただ、この2つを知ったからと言って、

ここで終わりではありません。

実践が大切です。

 

この方法は、古代、中世、近世、

近代のどこでも有効なので、

もう、どんどん実践するしか

ありませんね!

 

ということで、

さっそく実践していく

必要があります。

 

けれど、

いきなりたくさん実践するのは

大変ですよね?

 

なので、まずは、

「自分の好きな時代を選んで、

そこで実践する」

ということをやってみてください。

 

たとえば、江戸時代が好きな人は、

江戸時代の中から、

「綱吉にしよう!」という感じで、

一人選んでみてください!

 

最後まで読んでいただき、

ありがとうございました!

武士はどのように誕生した?難しい経緯を簡単に解説

 こんにちは!マロです!

 

 この記事では、

「武士の成立」

を解説します!

 

早速ですが、

みなさんは、

武士の成立について説明できますか?

 

 

「武士は偉い人」

「なんか、戦してた人」

そんな風に思っていませんか?

 

間違ってはいませんが、

そこで終わっていると、

この後の歴史が理解できません。

 

自分自身、初めはよくわかっていませんでした。

そのため、もやもやしたまま日本史を学んでしまい、

ただの暗記をしてしまいました。

その結果、暗記はうまくいきませんでした。

 

しかし、暗記せずに理解すれば、

しっかりと頭にはいり、

テストでも点を取れるようになったのです!

 

「武士」は幕府を理解するうえで重要なので、

いい加減には出来ません。

 

そこで、今回は、

「武士の成立」

について大まかに解説します!

 

 

 

では、さっそく解説します!

 

まず、武士について関して考える上で、

ポイントになるのが、

「土地の管理」です!

 

 

 

これは大切なキーワードなので、

覚えておいてください!

 

では、このキーワードを押さえたうえで、

武士の成立についてみていきます。

 

政治の中心は「天皇」と「貴族」でした。

昔は、天皇と有力な貴族が結婚し、

政治を担っていました。

 

 

この時、律令制度(律=刑法、令=行政法)

を行っていたのですが、

これが上手くいかなくなっていました。

こうなっていくと、税の徴収などの面で大変です。

 

そんな中、9世紀末あたりになると、

国司が地方統一を一任され、

その土地の農民に税を納めさせていました。

国司中央政府から派遣された行政官です。

 

そして、国司のトップが「受領」と呼ばれました。

ただ、この受領、かなりのワルだったのです。

中央の貴族にワイロを渡し、

出世したりしていました。

 

 

当時は、ワイロが成り立つ時代だったのです。

その結果、受領は多額のマネーが必要になりました。

そして、土地に重税を課すようになったのです。

 

 

そうすると、当然、対抗する人が出ますよね?

それが、武士誕生のきっかけです。

受領に対抗するため、郡司(国司の一つ下の役職)と

開発領主(有力農民)は武装化しました。

 

チェーン店で働いている店長やバイトリーダーが

上に胡麻をするエリアマネージャーのことが嫌いで、

そのエリアマネージャーをに歯向かうイメージです。

 

こうなると、政府も黙っちゃいません。

押領使と追捕使という軍事的な役人

を送り込みます。

 

当時は、海賊や強盗も盛んでした。

そのため、押領使や追捕使に鎮圧させたのです。

しかし、押領使や追捕使はその土地に住み、

武士に加わります。

 

ミイラ取りがミイラですね(笑)

そして、国司の子孫などが中心になり、

武士団を形成します。

 

 

その後、10世紀には、

承平天慶の乱藤原純友の乱が起きます。

この時、それぞれの乱を

桓武平氏清和源氏が鎮圧したのです。

 

彼らは、押領使、追捕使であり、

乱鎮圧後、棟梁として、

いくつもの武士団をまとめるようになります。

 

 

以上が、武士の成り立ちです。

 

簡単にまとめると、

横暴な役人に歯向かって

不良みたいになっていた

役人や有力農民が武士。

 

その武士が集団になり、

大暴れしていたのを

源氏平氏が鎮圧し、

まとめ上げていった。

 

ということですね!

 

この後、源氏と平氏が争い、

源氏が力を持ち、鎌倉幕府が成立します。

鎌倉幕府の主従関係も土地を介したものなので、

武士と土地の関係は重要です。

 

 

以上が、武士の成立です。

長くなってしまいましたが、

実はかなり省いています。

 

では、ここからさらに理解を深める

ためにはどうすればいいのでしょうか?

 

ここからやることとしては、

3つのステップがあります。

 

①今回の記事を読み直し

 大事なポイントをメモする

 

②メモなどをみながら教科書を読み、

 省かれた箇所などを学ぶ

 

③わからない部分をメモし、

 調べる

 

ですが、ここまでやるのは大変ですよね?

 

 

なので、まずは、

「今回の記事を読み直す」

ということをやってみてください!

 

ある程度わかりやすく書いたつもりですが、

一度読んだだけでは頭に入りません。

もう一度読むと、理解が深まります。

 

最期まで読んでいただき、ありがとうございました。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

知ってる人だけが受験に合格!? 暗記しない日本史

 

こんにちは!マロです!

 

 

この記事では、

関関同立の日本史の効果的な勉強法について、

お伝えしていきます!

 

 

さっそくですが、

あなたは日本史の勉強が難しいとおもっていませんか?

あるいは、日本史で悩んでいませんか?

 

 

 

この記事を読むと、

 

 

日本史を楽しく学ぶことができる

 

関関同立の日本史で、8割以上とれる

 

その結果、夢のキャンパスライフが手に入る

 

 



 

一方で、もしこの記事を読まずに勉強を続けると

 

しんどい思いをしながら日本史の勉強をすることになる

 

日本史が嫌いになり、点数も上がらない

 

その結果、大学受験に落ちる

 

     

 



こうなります。

 

こんなの嫌ですよね?

本記事では、そんなあなたに、

「楽しく学ぶ、暗記しない日本史勉強法」

をお伝えします!

 

本サイトの勉強法は、簡単に言うと、

「日本史を誰でも面白いと思えるように、

落とし込み、学習する」

というものです。

 

何度勉強しても、暗記できない…

そもそも勉強のやりかたがわからない…

そんな悩みを抱えている人が

多いと思います!

 

それは、日本史を面白いと思っていないからです。

日本史に興味を持てていないからです。

 

一方で、興味のあるものはすんなり頭にはいります。

 

たとえば、『ワンピース』という漫画があります。

この漫画には、登場人物が多いです。

それなのに、皆さん、

登場人物の名前、案外覚えていませんか?

 

あるいは、ストーリーの流れとか、

案外覚えている人、

多いのではないでしょうか?

 

『ワンピース』でなくても構いません。

他の漫画の登場人物、

あるいは、ストーリーの流れなど、

ちゃんと覚えている人もおおいはずです。

 

では、これは、なぜかと言うと、

単純に、興味があるからです。

面白いと思っているものは、簡単に頭にはいります。

 

一方、興味のないものは頭にはいりません。

当然ですよね。

 

じゃあ、具体的には、どうするの?

そう思ったのではないでしょうか?

この勉強法には、3つのステップがあります!

 

 

 

一つ目は、「単なる暗記をやめる」ということです。

日本史は、単に暗記をしても、頭にはいりません。

もちろん、人の名前などは暗記も必要ですが、

基本的には内容を理解する勉強をしましょう!

 

 

二つ目は、「教科書の熟読をやめる」ということです。

教科書は内容がわかりやすく書かれていません。

そんな教材を熟読しても、

内容は頭にはいらないでしょう。

 

 

三つ目は、「日本史を物語のように理解する」ということです。

歴史は「物語」です。

歴史には、様々な人生、価値観、展開などが含まれます。

これを意識すると、楽しんで勉強できるはずです!

 

 

ただ、3つ目までをすぐにやるのは困難です。

なので、まずは、

日本史の中で好きなものを見つける

ことをやってみてください!

 

 

好きなものというのは、人物でもいいし、

場面でも時代でも、構いません。

日本史の中で好きなものが一つ見つかると、

そこから興味を広げられるはずです!

 

 

最後まで読んでいただき、ありがとうございました!

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

大化改新は〇〇でマスターできる!

こんにちは!マロです!

 

さっそくですが、

大化改新」について

説明できますか?

 

 

「中学校で習った」

聖徳太子の後のやつでしょ?」

蘇我氏を倒したやつ?」

そんな風に思っていませんか?

 

大化改新は、

これからの歴史を学ぶ上で

大変重要です。

 

ここをしっかりと押さえると、

後の内容が理解しやすくなります。

ここは簡単なところなので、

確実に押さえましょう!

 

 

逆に、もし、

ここをしっかり押さえなければ、

後の歴史が理解しづらくなります。

 

そのうえ、当然、

大化改新の部分が試験に出たとき、

失点してしまいます。

 

大化改新の部分で失点し、

しかも、後の内容もうまく勉強できず、

最終的に受験に落ちる。

そんなの、嫌ですよね?

 

 

この記事では、

そうならないように、

大化改新」について、

分かり易く解説します。

 

まず、この頃の日本は、

天皇中心の国家体制を

まだ十分に確立できていませんでした。

 

これは要するに、

豪族も力を持っていたということです。

そのうえ、天皇は、地方に関しては、

どうなているのか把握していませんでした。

 

もちろん、ある程度はわかっていたでしょう。

しかし、具体的にどの地方にどれくらいの

人民がいる、といったことは

把握していませんでした。

 

かなりいい加減な話ですね(笑)

ですが、考えてみてください。

電話もパソコンも電車もない時代に、

地方のことまで把握するのはかなり難しいです。

 

 

天皇が各地方に出向き、

土地や人の記録を付けたり、

豪族を監視したりするのは

不可能でしょう。

 

では、どうすればいいのか?

簡単です。

縦向きの国家構造をつくる。

これが答えです。

 

天皇が都で頂点にいて、

各地に役所や役人を置き、

報告を受けたり、指示を出したりする。

こうすれば、全国を統治できます。

 

ですが、別に無理して

日本全国を納めなくても

良いのではないでしょうか?

 

戦さえ起きなければ、

それぞれの地方が国のようになればいい。

そう思いませんか?

 

けれど、そんなのんきな状況では

ありませんでした。

当時、日本の北の朝鮮半島では、

領土の拡大合戦が起こっていたのです。

 

聖徳太子の時代には、

隋が南北朝を統一し、

高句麗などの周辺地域に進出し始め、

東アジアは激動の状況になりました。

 

その後、隋が滅び、

唐という王朝になるのですが、

唐は充実した国家体制を整えます。

そして、また高句麗に侵攻を始めたのです。

 

出展:7世紀 - 7th century - JapaneseClass.jp

 

これに対し、周辺国はビビりまくります。

日本にとっても対岸の火事ではありません。

国内を統一させ、しっかりとした国にしなきゃ。

日本はそう考えたのです。

 

国内が統一され、政治が安定していれば、

当然、外国の侵攻に備えられます。

逆に、もし、政権争いや地方での反乱などで

政治が揺るがされれば大変です。

 

それを鎮圧したりしなければなりません。

しかも、地方などが味方でないということは、

日本は小さい国ということです。

そんな国、一瞬でつぶされます(笑)。

 

この状況では、当然、

中央集権化は必須ですね!

 

さて、時代を少しだけ遡ります。

ヤマト政権の時は、

大王に対し、

地方豪族が抵抗することがありました。

 

出展:日本史|東アジアのヤマト政権 (chitonitose.com)

 

 

そのため、ヤマト政権の後半で、大王は、

地方に屯倉という直轄領を設けたり、

名代・子代という直轄民を設けたりし、

地方を納めました。

 

一方、豪族にはその地方の支配権を認め、

その代わり、屯倉や名代子代の管理をさせたり、

豪族の子どもを大王の元に出仕させたりして、

ヤマト政権に奉仕させていました。

 

出展:古墳時代とヤマト政権 | 歴史HACK (history-wisdom.net)

 

その後、聖徳太子の時代には、

推古天皇聖徳太子とともに

蘇我馬子を政権に登用し、

蘇我氏という豪族が権力を持ちました。

 

そして、この蘇我氏がじゃまだったのです。

庶民のみならず、土地や豪族まで、

全ての人と土地を天皇が支配する。

 

そのような体制をとりたいのに、

蘇我入鹿(馬子の孫)が

山城大兄王(聖徳太子の息子)を滅ぼし、

蘇我氏への権力集中をはかりました。

 

こんなことをされると、

皇族側は黙っちゃいません。

反撃します。

 

中大兄皇子は、

中臣鎌足蘇我倉山田石川麻呂に

協力してもらい、

蘇我馬子蝦夷親子を滅ぼします。

 

中大兄皇子は後の天智天皇

中臣鎌足は後の藤原氏の祖、

蘇我倉山田石川麻呂は馬子の孫です。

石川麻呂に関しては、謎ですね(笑)。

 

出展:日本を乗っ取る名門一族(?)藤原氏の正体 | 國體派カタカムナ玄学史観研究会 (ameblo.jp)

 

この出来事を「乙巳の変」と言います。

この変の2日後、皇極天皇の譲位を受け、

孝徳天皇が即位します。

 

そして、この新政権には、

皇太子として中大兄皇子が、

右大臣に蘇我倉山田石川麻呂が、

内臣に中臣鎌足が登用されます。

 

その他、帰国した遣唐使

旻と高向玄理を国博士に登用しました。

そして、飛鳥から難波に遷都し、

政治改革を進めました。

 

出展:古代の水陸交通網・大和川 : 徒然なるままに、、、 (exblog.jp)

 

この時の、

孝徳朝において行われた

一連の改革を「大化改新

といいます。

 

乙巳の変や新政権を

大化改新というわけでは

ありません。

ちなみに、「大化」は元号です。

 

出展:欠史八代結合体:【古代天皇詩】Vo.36 孝徳天皇の難波ひとりぼっち (livedoor.jp)

 

では、どのような改革だったのでしょう?

具体的には、「公地公民制」への移行です。

公地公民とは、土地や国民は全て天皇のもの

ということです。

 

646年(乙巳の変の1年後)、

「改新の詔」が出されました。

詔は、天皇の言葉という意味です。

 

この詔によって、豪族の田荘、部曲が

廃止されました。

田荘と部曲は大和政権時代に

設けられていたものです。

 

田荘は豪族の私有地、

部曲は豪族の私有民です。

豪族が土地や人を所有していると

困りますよね。

 

出展:【高校日本史】氏姓制度のポイント | TEKIBO

 

天皇は、全ての土地と人を

支配しようとしていたのです。

なのに、豪族が土地と人を所有していたら

当然困ります。

 

称徳天皇はこれらを廃止し、

公地公民制を進めました。

 

そのうえで、

全国的な田地、人民の調査や、

統一的税制の施行が目指されました。

 

さらに、地方行政組織の「評」が設けられ、

中央の官制も整備されました。

とはいえ、具体的な話が出てくるのは、

少しのちの時代です。

 

出展:日本史|大化改新 (chitonitose.com)

 

以上が「大化改新」です。

今回の内容は簡単なので、

比較的頭にはいりやすいと思います。

 

しかし、だからといって、

このまま読み終わってはいけません。

なぜなら、このまま読み終わってしまうと、

せっかく得た知識が定着しないからです。

 

では、どうすればいいのか?

やるべきことは2つあります。

 

①今回の記事を読み直し、ポイントを確認する

 

②①を受け、教科書などを読み、

 次の時代の流れを確認し、

 今回の内容とのつながりを考える。

 

この2つです。

とはいえ、②に関しては、

はっきり言って難しいと思います。

 

そのため、まずは、

「今回の記事を読み直し、

ポイントを確認する」

ということをやってみてください。

 

最期まで読んでいただき、

ありがとうございました。                                                                                            

                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

奈良時代の政治の流れは○○でマスターできる!

こんにちは!マロです!

 

本サイトでは、

奈良時代の政治の流れ」

について解説します!

 

さっそくですが、

みなさんは、

奈良時代の政治の流れを

説明できていますか?

 

 

「藤原の不比等?」

長屋王?」

「よくわからない」

「そもそも、奈良時代っていつ?」

 

そんな人いませんか?

ここは試験でよく出題されます!

なので、ぼんやりとした理解では、

確実に点を落とすポイントになってしまいます。

 

 

試験によく出題される。

けど、難しいから、押さえられない。

こんなの、もったえなくないですか?

 

試験に出題されるとわかっているのであれば、

たとえどんなに押さえにくくても、

確実に押さえ、点を取りに行くべきです!

 

逆に、ここを確実に点を取れるポイントにすると、

受験に合格する確率が高まります!

たとえ、配点は5点10点ぐらいだとしても、

その5点10点が合格を左右するからです!

 

 

もちろん、

ここだけ勉強すればいいわけではありません。

それでも、日本史の試験には出やすいポイントがあります。

 

そこを多く押さえ、

そこから最後に細かい部分を詰めれば、

日本史で8割以上を狙えるのです!

 

なので、この記事は、

日本史で8割以上を取るための、

大きな一歩になります!

 

では、さっそく解説していきます!

 

 

まず、奈良時代というと、

平城京に遷都してから、

長岡京に遷都するまでの期間ですね。

 

その後は、長岡京に遷都し、

平安時代を迎えます!

710年~782年の72年間が、

奈良時代にあたるのです!

 

ちなみに、余談ですが、

710年は「なんと綺麗な平城京」、

ですね!

 

日本史では、この期間を奈良時代と呼びます!

途中遷都する(都の場所をかえる)こともありましたが、

都の場所は、基本的に平城京です!

 

この時代は、律令制度が整えられた時代です!

律令制度とは、簡単に言うと、

「法律の制度」ということです!

律は刑法、令は行政法を指します。

 

なので、律令制度が整えられたということは、

犯罪を取り締まる法律と、

行政組織、租税の仕組みが規定された

ということです!

 

考えてみると、これがないと大変ですよね?

人を殺しても、明確な罰を与えられない。

税金を収集するシステムがない。

こんなことが起こるでしょう。

 

律令制度が整う前は、

どんな風な社会だったのか、

詳細は分かりませんが、

律令制度は大変重要だと言えるでしょう。

 

当時は、隋や唐に倣い、

中央集権国家を確立させていました。

都から地方へ、縦向きの支配構造で、

国家運営のシステムを確立させたということです。

 

役所を整備したり、

身分制度を確立させることで、

刑罰や税の仕組みが確立されたのです。

 

このような時代の中で、

政治面では様々な事が起こります。

政争、疫病、仏教…。

 

内容は少しややこしいですが、

きっと面白いと思います!

これこそ、ストーリーですね!

では、本題に入ります。

 

まず、この時、

天皇は、聖武孝謙淳仁⇒称徳(孝謙)と

いう順で移り変わります。

 

ただし、奈良時代の政治では、

天皇よりも天皇以外の権力者

の存在が重要です。

 

この時の、天皇以外の権力者は、

権力を握れる役職の人物か、

天皇から認められた人物を指します。

 

奈良時代の政治では、

そこを押さえることが

とても重要なのです。

 

このような奈良時代の政治は、

藤原不比等から始まります。

藤原不比等律令制度を

整えた人ですね!

 

出展:藤原不比等 (659~720)ふじわら の ふひと | 日本史に学ぶ (ameblo.jp)

 

不比等は、中臣鎌足の息子で、

下級役人からスタートしましたが、

才能を発揮し、持統太上天皇文武天皇

重用されるようになります。

 

その結果、不比等

大宝律令を完成させ、

その後は、娘の宮子を文武天皇と結婚させ、

外戚(母方の親戚)として、権力を握ります。

 

これは要するに、不比等が、

嫁さんの父さんとして、

権力を握ったということですね。

これは、完全なる政略結婚です。

 

したたかですね(笑)

ちなみに、藤原氏が政界に進出すると、

大伴氏や佐伯氏などの他の人の勢力は

後退していきました。

 

つまり、政略結婚させたときには、

もう無敵でした。

ここから、藤原一族が権力を

握る時代が長く続きます。

 

その後、文武天皇と宮子の間に

聖武天皇が生まれます。

不比等はさらに、聖武天皇

娘の光明子を嫁がせます。

 

これは、つまり、

孫である、聖武に、

宮子の姉妹を嫁がせた

ということです。

 

サザエさんで言うと、波平が

マスオにサザエを、

たらちゃんにわかめを

嫁がせるようなものです。

 

今の時代なら、

ドン引きですね(笑)

ただ、皇族の世界では、

こういうこともできたようです。

 

こうして、天皇家と密接な

関係を築いた不比等ですが、

死にます。

 

その後は、長屋王という人物が、

権力を握ります。

長屋王

なんか、絶対金持ちか何かですね(笑)

 

出展:古代人が恐れた「長屋王」の「祟り」と「疫病」 国際人のための日本古代史() | デイリー新潮 (dailyshincho.jp)

 

長屋王天武天皇の孫で、

皇族家の人物です。

それでも、天皇ではなく、

右大臣でした。

 

ただ、長屋王光明子が皇后になることに

反対し、藤原4兄弟によって自殺させられます。

当時、律令の規定では、

皇后は皇族でなくてはなりませんでした。

 

藤原4兄弟は、

房前(北家)、武智麻呂(南家)、宇合(式家)、麻呂(京家)

といった感じです。

これも試験によくでるので、押さえてください。

 

出展:藤原四家_百度百科 (baidu.com)

 

藤原不比等には男子4兄弟を子どもに持ち、

その子どもが権力を握りました。

ただし、この4兄弟は、

天然痘で相次いで死亡します。

 

長屋王の呪いかもしれません(笑)

ちなみに、天然痘は今は撲滅されましたね。

ただ、当時は、恐ろしい病の一つでした。

 

出展:日本の医学史 (nico-wisdom.com)

 

天然痘は、

帰国した遣唐使によって、

唐から持ち込まれたのだと

推測されています。

 

藤原4兄弟が死んだあとは、

橘諸兄が政権を握ります。

橘諸兄は皇族出身の人間です。

 

出展:橘諸兄 - Tachibana no Moroe - JapaneseClass.jp

 

この時、天然痘によって、

政権の高官が次々と亡くなりました。

そこで、聖武天皇は生き残っていた橘諸兄

左大臣に抜擢します。

 

生き残っていたから、

理由はそれだけではないと思いますが、

それが理由というのはヤバいですね(笑)

 

橘諸兄は、唐から帰国した遣唐使

玄昉と吉備真備を政治に登用します。

しかし、この2人の登用に反対し、

九州で大規模な反乱を起こした人物がいます。

 

それが、藤原広嗣です。

藤原広嗣は宇合(式家)の息子です。

この時、藤原家の地位は低下しており、

広嗣は大宰府に左遷されていました。

 

広嗣は、左遷され、

不満を持たないわけがありません。

天然痘流行は遣唐使のせいだ」

と主張し、反乱を起こします。

 

しかし、すぐに鎮圧されてしまいます。

ここまでの流れで大切なのは、

天然痘による影響が大きかった

ということですね。

 

そして、この乱や天然痘の流行に

動揺してしまった聖武天皇は、

恭仁京難波宮信楽宮平城京

の順に遷都します。

 

出展: 

 

この3つの都は

それぞれ京都、大阪、滋賀なので、

京都⇒大阪⇒滋賀の順に

遷都したイメージです。

 

これは聖武天皇の迷走なのですが、

橘諸兄はその間に政治を整えます。

代表的なのは、墾田永年私財法ですね。

 

ただ、聖武天皇鎮護国家の思想に基づき、

大仏や寺を造ります。

仏教を盛んにすれば国家は安定する。

聖武天皇はそう考えたのです。

 

出展:[B!] なぜ大仏造立の詔は出された?簡単にわかりやすく徹底解説!【聖武天皇の仏教信仰の物語】 (hatena.ne.jp)

 

その後は、藤原仲麻呂

光明皇太后と協力して

政界で勢力を伸ばします。

藤原家の勢いが戻りました。

 

 

それでも、橘奈良麻呂

仲麻呂を滅ぼそうとしますが、

逆に滅ぼされます。

奈良麻呂は諸兄の子です。

 

なんか、橘と藤原は仲悪いですね。

勝った仲麻呂は、淳仁天皇を即位させ、

恵美押勝の名を賜ります。

 

しかし、後ろ盾の光明皇太后が亡くなると、

孤立を深めます。

そして、この時、

面白いことが起こっていました。

 

孝謙上皇が自分の看病をしてくれた僧の

道鏡を寵愛して、淳仁天皇と対立します。

そして、孝謙は先に淳仁側の恵美押勝を滅ぼし、

もう一回天皇になったのです。

 

出展:密告と殺戮!奈良時代、それは血で血を洗う争乱が続いた時代だった。【後編】 | 歴史・文化 - Japaaan

 

これは、要するに、

孝謙というおばさんかおばあさんの天皇が、

道鏡という僧を溺愛し、

権力を与えようとしたということですね、

 

道鏡に恋してたのでしょうか?

分かりませんが、政治に影響させると

ヤバいですね(笑)

 

道鏡称徳天皇(孝謙)の支持を得て、

最終的に法王になり、

仏教政治を行います。

 

そして、称徳天皇は、

道鏡に政権を譲ろうとします。

しかし、宇佐八幡宮和気清麻呂

信託により、それはかないません。

 

和気清麻呂は神の真意を伝える使い

になったのですが、

逆の真意報告をして、

称徳を挫折させました。

 

そして、称徳が崩御し、

最後は藤原百川らが

光仁天皇を即位させ、

道鏡は左遷され、終わります。

 

ここまでの流れが

奈良時代の政治です。

長くなりましたが、

途中で切ることは出来ませんでした。

 

ここまでは一連の流れで覚えましょう。

簡単にまとめると、

 

藤原不比等の政略結婚、天然痘の影響、

道鏡をめぐる出来事のおおよそ3つですね。

ちなみに、奈良時代の間、

藤原家とそれ以外の人が交互に力を持ちます。

 

ここまで権力を持った人をまとめると、

以下のようになります。

藤原不比等長屋王⇒藤原4兄弟

橘諸兄藤原仲麻呂道鏡

 

とはいえ、まとめるのにも

限界があります。

ここはそこそこややこしいところなので、

しっかり勉強してください!

 

しっかり勉強することで定着します。

けど、どうやって復習すればいいの?

そう思った人が多いと思います。

勉強する手順としては、3つあります。

 

①この記事を読み直す

 

②大事なところをノートに書き、

 情報を整理する

 

③教科書などを読み、用語や

 補足情報を確認し、内容を深める。

 

特に③は大切です。

なぜなら、

ここでは簡単に説明するために

多少内容などを省いているからです。

 

省いている箇所が試験に出た場合、

せっかく勉強した意味がなくなります。

まずは①②をしっかり行い、

③もきっちりさせましょう!

 

とはいえ、いきなり①②③の全てを行うのは、

難しいはずです。

そのため、まずは、①この記事を読み直す

の部分をしっかり行いましょう!

 

この記事を読み直すと、他の教材を使うより、

簡単に内容を理解できます。

その結果、苦しんで暗記する必要がなくなり、

最終的には試験で点を取ることができます!

 

まずは①を実行し、

最終的に日本史の試験で

8割以上を取れるようにしましょう!

 

最期まで読んでいただき、ありがとうございました。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

鎌倉新仏教を分かり易く解説

こんにちは!マロです!

 

今回は、鎌倉仏教について解説します!

 

 

鎌倉仏教と聞くと、

あなたはどんなイメージを持ちますか?

 

法然

踊念仏

禅…

新しく出てきたやつ…

 

そんなイメージで終わっていませんか?

 

ここに関しては、

しっかりと理解し、

整理する必要があります。

 

誰が、どのような価値観で、

どのような仏教を布教していたのか

ただの暗記では、すぐに抜けてしまいます。

 

 

自分自身がそうでした。

あまりよくわからず、

無理やり暗記し、

テストが終わると忘れてしまっていたのです。

 

なので、日本史の模試の前に

毎回必死で勉強していました(笑)

 

しかし、それでは、

かなり時間がかかってしまいます。

日本史って情報量多いですよね?

効率よく勉強する必要があります。

 

そこで、今回、

「鎌倉仏教」を分かり易く解説します!

 

この記事を読めば、

「鎌倉仏教は覚えにくい」

というイメージがなくなります!

 

それどころか、

鎌倉仏教の解説を

友達にできるようになります

 

友達に解説できるということは、

内容をしっかり理解できていると

いうことです。

こうなれば、無敵です!!

 

試験で当然点を取れますよね!

 

では、早速解説していきます!

 

 

まず、仏教はもともと、

中国から持ち込まれました。

つまり、仏教は当然、

もとは日本の宗教ではありませんでした。

 

出展:秋田城とは|秋田市公式サイト (akita.lg.jp)

 

そのため、庶民にはあまり広がっておらず、

僧侶や貴族の間でしか信仰されていませんでした。

さらに、奈良時代平安時代の仏教は、

国家により、保護されていました。

 

この頃の層は、インテリであったため、

インテリである僧が、国家の許可を得て、

学問的に信仰していたということですね。

 

しかも、仏教を信仰していたのは、

主に貴族でした。

無論、庶民も仏教に触れていましたが、

それはもとは少数だったのです。

 

 

そんな中、鎌倉時代になると、

新しい仏教も登場します。

これらは「鎌倉新仏教」と呼ばれるもので、

皆が頭を抱えるポイントですね(笑)

 

この「鎌倉新仏教」は、

武士や庶民など、幅広い層に広がりました。

 

とはいえ、これは少数派なのですが、

後の世にも影響を与えたからか、

試験によく出ます(笑)

なので、確実に押さえましょう!

 

 

新仏教として最初に登場したのは、

法然です。

法然は、念仏を唱えれば極楽浄土に行ける

という、「専修念仏」の教えを説きました。

 

出展:法然忌(1月25日 記念日) | 今日は何の日 | 雑学ネタ帳 (zatsuneta.com)

 

よくお葬式とかで、「浄土宗」という

言葉を聞くことがあると思います。

これは、簡単に言うと、

南無阿弥陀仏」と言ってるやつですね。

 

平安時代に、浄土教が普及しました。

その後、法然浄土教を簡素化し、

「念仏を唱えていれば救われる」

と説きました。

 

つまり、修行などをせず、

念仏を唱えてさえいれば救われる

ということです。

これは当然、批判されます。

 

法然の教えは庶民などから支持された一方、

かなり批判され、

法然は貞慶という人物によって流罪にされます。

 

出展:親鸞 - WikiArc (wikidharma.org)

 

その後、法然の弟子の親鸞が登場します。

彼は、煩悩の多い人こそが救いの対象という

悪人正機を解き、

それは農民や地方武士に支持されました。

 

煩悩とは、欲などの人間を苦しませるものです。

当時は、煩悩が多いことは悪とされました。

 

この教えは、法然の浄土宗を発展させたもので、

浄土真宗(一向宗)」と呼ばれるものです。

これもお葬式でもよく聞く名前ですよね。

 

出展:忘れへんうちに Avant d’oublier: 一遍聖絵と時宗の名宝展 一遍聖絵巻5-8 (avantdoublier.blogspot.com)

 

同じ浄土教の流れから、

一遍が登場します。

一遍は踊念仏というものを説き、

踊りながら念仏することを推進しました。

 

これは「時宗」と呼ばれる宗派です。

イメージとしては、

遊びながら試験勉強をすれば、

受験に合格できますといっているようなものです。

 

出展:606-06-浄光院 日蓮・像画 (amigokamakura.sakura.ne.jp)

 

その他、日蓮日蓮宗を作ります。

これは、天台宗の流れを受けており、

法華経を唱えろという教えです。

 

ちなみに、日蓮は過激派で、

他の宗派を激しく攻撃しながら布教していました。

そのため、幕府から弾圧されます。

日蓮=過激な人 日蓮日蓮宗法華経ですね。

 

出展:坐禅会 |曹洞宗 大慈山 千手院 (soto-senjuin.com)

 

そして、最後は禅宗系の宗派です。

禅というと、今、経営陣の間でも流行っていますね。

禅とは、座禅のことです。

簡単に言うと、動くと棒で殴られるやつです。

 

栄西臨済宗を説きました。

これは、公案(とんち)を解決しながら坐禅する

という教えです。

 

一方、栄西の弟子の弟子の道元

南宋に留学し、漕洞宗を説きました。

これは、只管(ひたすら)座禅せよという

教え(只管打坐)です。

 

禅は室町時代に将軍などから支持されるので、

押さえておいてください。

 

 

以上が、鎌倉新仏教です。

 

長くなってしまいましたが、

正直、これでも少し省いています。

なので、ここからさらに

勉強する必要があります。

 

鎌倉新仏教を押さえるには、

3つのステップがあります。

 

①この記事を読み直す

 

②大事なところを自分なりに

まとめてみる

 

③教科書や資料集などを読み、

さらに詳しい内容を押さえる

 

この3つです!

 

とはいえ、

この3つをいきなりするのは

大変ですよね?

 

なので、まずは、

この記事を読み直す

ということをやってみて下さい!

 

最後まで読んでいただき、

ありがとうございました!